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本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記【第36話】(前回)はこちらから。
プラハ・チェコ
体調不良
チェコに来てからの僕は色々ついていなかった。ハンガリー・ブダペストで風邪をひいて、その時の熱がなかなか下がらい。解熱剤を飲んでみても、能書き通りの作用時間が経過した後、体温は再び上昇し始めた。そういうことを何度か繰り返して、それで僕はもうお薬に頼ることをやめてしまった。
原因不明の熱発の原因は「熱中症」によるものだと思っていた。僕がヨーロッパを旅していた時期は記録的な熱波がヨーロッパを覆っていたらしかった。ハンガリーの気温は連日40度を超えていて、そんな中僕は帽子も被らずに外をウロウロしていたため、少し体の調子が狂ってしまったようだった。それでも建物の中に入って十分な水分を摂ることで幾分かはマシになった。
ブダペストを後にした僕が向かったのがチェコの首都、プラハである。ハンガリーで体調を崩していたので、そのままブダペストの日本人宿に残って延泊し、場合によっては病院で診てもらえば良かったのかもしれない。というかそうすれば良かったと、プラハの歴史地区の一角にあるゲストハウスのベッドにうずくまって、発熱による疲労と全身倦怠感の中ぼんやりとした頭でずっと後悔していた。別に急ぐ必要なんてなかったのだ。
チェコに到着から数日して、熱に代わって咳が出るようになった。いわゆるdry coughである。タンの絡まない、文字通り乾いた咳だ。その咳が止まらない。熱が引いて行くに連れて、咳がどんどんひどくなっていった。夜中は特にひどくなって、同室のアジア人の顔をしたアメリカ人にクレームをつけられることになった。僕だって咳をしたくてしているわけじゃないのに。その咳は結局1ヶ月以上続いた。
それにしても、そもそもどうして僕はチェコなんかに来ることになったんだろう?
「正常性バイアス」
友人とのデンマークでの待ち合わせまで残り10日。僕はそれまでにどうしてもポーランドの「アウシュビッツ強制収容所」に行ってみたかった。それ以外は特にこれといって行きたいところもなければしたい事もない。
ブダペストの日本人宿「アンダンテ」で、仕事で東欧の雑貨を買い付けに来ているという女性と旅の話をしていた。そしてチェコの話になった。うん、それが理由だった。その時の話になにか心を惹かれるものがあったのかと言われると思い出せないというのが正直なところだ。チェコへはハンガリーからバスで6時間、4000円程度で移動できるということだった。
ヨーロッパはLCCと同じくらい国際線のバスが発達している。運賃そのものはあまり変わらないのだけれど、飛行機で荷物を預ける費用を考えると結果的にはバスの方が安くつく。時間さえ許すならベストな移動手段であると思うのだけれど、ヨーロッパを旅しはじめて一ヶ月ほど経過しているにも関わらず僕は全然そのことに気づいていなかった。
うん、そのリーズナブルなヨーロッパの長距離バスにも乗ってみたい。それから一つでも多くの国に行ったと他の人に自慢したい。そういう色気も手伝って、というよりもほとんどそれだけが理由で、僕はチェコへと向かうことになったのだった。そしてそれは見事に裏目に出ることになった。
プラハ本駅前のターミナルらしき場所にバスが到着して、そこからゲストハウスのある歴史地区まで徒歩で移動する。絵本からそのまま飛び出してきたかのような街並みを持つプラハ旧市街は、同時に多くの宿泊施設を有するエリアでもある。僕のようなバックパッカー向けのゲストハウスやホステルもある。
カレル橋を渡って「プラハ城」へ向かう緩やかな石畳の坂を登り、セント・ニコラス教会の前の、トラムが走り抜ける広々とした通りを抜けて宿に向かう。夕暮れの時間、黄金色に染まってゆく空の色を映して光り輝く石造りの街並みを、やがて夜の帳が覆ってゆく。日が暮れて、あたりがパステルカラーにライトアップされてゆく。プラハの、絵本からそのまま飛び出してきたかのような街並みが、ちょっとしたテーマパークのような色を帯びてゆく。
デビッドカードで現金を出金したくて、ゲストハウスに向かう道すがら、あたりにあったATMを利用してみた。けれどどうにもうまくいかない。「銀行に問い合わせてください」というような意味のメッセージが表示され、現金が出金できないのだ。別の場所にあるATMで試してみても、やっぱり同じようにうまくいかない。
実は前にも一度イタリアを出国するときに似たようなことがあった。けれど次のクロアチアでは無事出金できたので、僕はそんなに気にしていなかった。じゃあ今回もこの次に訪れる予定のポーランドで試してみればいい。万が一デビッドカードがダメでもクレジットカードがある。
ただ正直なところ、僕は海外ではできる限りクレジットカードを使いたくなかった。スキミング被害にあうのも怖いし、知らず識らずのうちに使いすぎてしまいそうで嫌なのだ。だからなるべく必要と思われる最少額の現金を用意しておいてそれを小出しに使っていた。旅中はずっとそうしていた。
ヨーロッパの通貨はユーロにほぼ統一されている。6月に日本を出国する際に、必要と思われるドルとユーロを現金で用意して、それを大事に持ち歩いていた。そのユーロもまだ残っている。チェコの通貨は「コルナ」だけれど、プラハの街では普通にユーロが流通している。そのことは僕に、必要な対処を遅くさせる原因の一つになったのかもしれない。
そう、僕はこの時結構深刻な状況に陥っていたのだった。けれどそれはまた別の話だ。とにかくその時「そんなこと」になっているなんて、当時の僕には知る由もない。物事がうまくいっていないとき、人は得てしてその事実から目を逸らそうとしてしまう。「正常性バイアス」というやつだ。そして悪いことは続けて起り、何をやってもますますうまくいかなくなってゆく。
とりあえずデビットカードが使えない理由が知りたくて、銀行に電話をかけてみることにした。僕のスマートフォンはSIMフリー携帯だけれど、国を移動する度にいちいちSIMを入れ替えたりするような手間とお金がかかるようなことはしない。代わりにスカイプを電話がわりにして使っていた。クレジットカードからあらかじめ現金をチャージしておくことで、スカイプアプリから固定電話や携帯電話にも電話がかけられるようになるサービスを利用していたのだ。
悪いことは続けて起こる。このときログインしようとしたスカイプはすでにアカウントが封鎖されていて使えなくなっていた。理由はなんらかの不正アクセスだか、不正アクセスの疑いがあるとかだったように思う。詳しいことはよくわからないけれど、とにかく僕の電話は使えなくなっていた。
一階に降りてフロントで電話を借りてかけてみようか。けれどあの愛想の悪いチェコ人に話しかけるのも億劫だったし、SIMカードを買いに行くのも面倒くさい。そもそも咳で体がだるくてベッドから出たくない。それで僕はそのまますっかり電話をかけることを忘れてしまった。なにせその時お金の方は何とかなっていたのだから。
僕の咳は深夜にひどくなって夜中はほとんど眠れなかった。明け方にようやくまどろみ始める。日本から持っていた市販の風邪薬もあまり効果がないようだった。それでも夜中あまりに咳がひどい時は気休めのつもりで、催眠作用を期待して飲んだりしていた。夜が白みはじめてからようやく眠くなる。そしてまた数時間後に咳き込んで目がさめる。そういうことをこれから先一ヶ月間繰り返すことになる。その端緒がここ、プラハだった。
長引く咳が体力を徐々に奪っていった。けれどせっかくここまで来たのだから観光しないともったいない。夕方具合が良くなって、少し動くことができるようになったタイミングを見計らって僕は外に出た。熱波の影響はこの時間のプラハの街を過ごしにくいものにしていたのかもしれなかったけれど、カレル橋とプラハ城を望むブルタバ川沿いの歩道は連日夕涼みの旅行者で賑わっていた。
この時の自分のことを思い出すと本当に嫌気がさす。体の調子が悪いのにも関わらず特段行きたいとも思わない場所に行って、そこでする必要のない無理をしてさらに体調を崩してゆく。食欲はあるにはあったのだけれど、特にこれといって食べたいものもない。だから食べない。つまり身体の声を聴くことを怠っていたのだ。
旅へ
身体からのシグナルを無視する。客観的な状況判断をしない(できない)。この二つが引き起こすカタストロフは致命的に取り返しがつかない。僕がこれ以上日本で生活することができなくなるに至った原因がまさにこの二つだった。タチが悪いのは、この二つはまるで弱い酸のように、少しずつ僕たちの身体を蝕んでゆき、気づかないうちに自らの置かれている状況を好ましくない方向へとドライブして行くということだ。気づいた時にはもう手遅れになっている。
2015年の1月に、僕は横断歩道を青信号で横断中に、交差点に侵入してきた右折車にはねられて全治2ヶ月の重症を負った。幸い障害は残らなかったものの、脊椎が変形したまま癒合している。神経に触らなかったのが不幸中の幸いだった。もし触っていれば半身不随である。世界一周どころではない。
当時転職を控えていた僕は、とりあえず少なくとも歩けるようにはなっていたくて一ヶ月の寝たきり生活の後、かなり無理をしてリハビリに励んだ。すっかり細くなった下半身の筋肉を取り戻す必要がある。趣味のランニングだって再開したい。鎮痛剤を飲みながらのリハビリは奏効して、なんとか4月までにはゆっくりだけれど歩けるようにはなっていた。
転職というのはなかなか精神的な負荷の高い行為だ。転職のストレスとリハビリのストレスに、以前ほどのスピードで歩けないことのストレスが折り重なる。通勤電車で立っているのが辛い。そして僕のように、見たところ健康な中年の男性に席を譲ってくれるような人なんていない。人の目が気になって、空いている優先座席に座る勇気もない。
転職の2ヶ月後に、母の消息に関する郵便物を某官公庁から受け取った。それは全く寝耳に水だった。いや、今考えてみればそんな手紙を受け取ることになるのはごく自然の成り行きだったと言える。けれど当時の僕は、せっかく手に入れた新しい職場への適応に必死で、自分と家族の状況を客観的に冷静に眺めてみることを怠っていた。翌月祖母がなくなった。その頃からだった、眠りにつくことが難しくなり、夜間に何度も目が醒めるようになったのは。
二週間以上続く睡眠障害は精神の失調によることがある。けれど僕はその原因を自分自身の精神状態に帰することをせず、時折疼く腰椎のせいであると自己判断していた。誰にも相談せず、誰の忠告も受け付けなかった。この頃から徐々に仕事上のミスを指摘されるようになっていった。転職直後だからというエクスキューズもそろそろ通用しなくなってくる頃だ。代わって「あいつは仕事ができない」というレッテルを張られるようになる。
それだけはどうしても嫌で、オンタイムに処理できない案件は休日にこっそり出勤してこなすようになっていった。僕にだって長年この業界でそれなりにやってきたプライドがある。秋頃になると、仕事の量は自分の処理能力を超えるようになっていった。いや、そうではなくて、その時の自分の処理能力が平均的なそれを遥かに下回っていたのだ。
それでも僕は現実を直視することを怠った。職場に近い所へ引っ越せば、通勤も便利になってもう少し無理が効くようになる。そう思って引っ越しを決めた。精神状態が芳しくない時期に環境を変えるのはほとんど自殺行為に等しい。環境の変化が適度なガス抜きになる状態を、当時の僕はとっくに超えていた。はっきりとした精神疾患の診断名が付く状態だった。専門家としての僕なら患者さんに対してそう言えるはずなのに、自分のことは全く視界に入っていなかったか、入っていないふりをしていた。
そうして交通事故から一年が経過した2016年の1月に、僕は「病気療養のため」長期の休養に入ることになる。その時はもう、僕に優しい声をかけてくれる人も、建設的なアドバイスをくれる人もいなくなっていた。職場で一人孤立して、毎日不眠と全身倦怠感で吐きそうになりながら仕事をしていた。職場で声をかけられるのは、仕事上のミスを指摘される時だけだった。
そうして半年の療養期間を経て家族との関係がさらに崩れ、友人・知人(と僕が思っていた人々)との関係が途切れる。これ以上の休職が意味をなさないとわかった2016年の7月に、僕は退職願を提出した(そのくだりは以前書いた)。実家は僕を受け入れてはくれない(これも以前書いた)。無職になって収入の途絶えた僕は大阪市内のマンションを引き払い、家財道具一式をすべて整理して、最低限の荷物だけをバックパックに詰めてホームレスになり、そして旅に出た。仕事をやめた3ヶ月後の11月、小春日和の秋の日だった。
今こうして振り返ってみると、日本にいた時の僕と世界一周中の、とりわけチェコ以降の僕との相似性に我ながら驚かされる。この時の僕ははただ、自分に度重なって降りかかるバッドラックを恨んで嘆くことしかできなかった。けれどこうして客観的に振り返ってみると、それらは起こるべくして起こったと言う他はない。恨むべくも嘆くべくも、哀しいかなそれは自分自身だったというわけだ。
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