【第1話】本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記

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1.日本〜フィリピン

1.旅について考えたこと・旅について書くこと

65リットルのバックパックに可能な限りの荷物を詰め込んで日本を後にしたのが2016年の11月。

油断しているとうっかり眠りに落ちてしまいそうな小春日和が数日続いた後の日曜日で、僕は成田空港の第二ターミナルで、眠い目をこすりながら、フィリピンに向かう飛行機が離陸するのを待っていた。

この旅が終わればきっと何かが変わる。このパッとしない日常を抜け出してひとまわりもふた回りも大きくなった自分が、不安と期待がないまぜになったこの日の今の自分のことを懐かしく振り返っている。

そんな1年後をなんとなく思い描いて日本を後にした。

僕の世界一周の最初の目的地はセブ島にある親密で穏やかな空気の流れる語学学校だった。それはそこから始まることになる400日間の旅の最高のスタートのように思われた。

全てがきっとうまくいく。そんな自信に溢れる旅立ちだった。

あれから一年後、その語学学校の一室で旅を終えた僕がこうして旅に関する文章を書いている。どんな文章が生まれるのかはわからない。

それは未だに僕自身が、自分がどのような人間であるのかを今ひとつ掴みきれていないことによるのかもしれないし、単純に文章を書くことにそこまで慣れ親しんでいないからかもしれない。

けれどそんな僕にも、旅についての何かがかけるような気がしている。旅先で出会った息を飲むような美しい景色、かけがえのない仲間との出会い、感動の瞬間、どうしようもない失敗、別れ、寂しさ、孤独。

そういったものに触れることで自分の心の中に浮かぶことになった様々な感情や思いを、あるものは日記を頼りに、あるものは不確かな記憶に基づいてゆっくりと呼び起こしながら、またあるものは素晴らしい出会いにインスパイアされることで、旅をするということや、生きていくことということについてのささやかな文章を書くことができれば。

そういう思いで今パソコンの前に座っている。

そしてこのセブ島には、そのような思索に耽るのに最適な時間が流れているように、今の僕には思われるのだ。

 

ただ一つ、最初に言わなければならないことがある。

 

それは、今これを書いている「1年後の僕」なるものは、旅に出る前と同様、相変わらず地味で、暗くて、お世辞にもパッとしているとは言い難い、42歳の中年男性に過ぎないということだ。

旅の途中から、なんとなくそのことに気づいてはいた。

自分はどこまでいってもあくまで自分であり、自分でしかないのだと。

2.旅が僕を変えてくれるのではない

旅は 、僕のようなにわかバックパッカーが旅を語ることのおこがましさを少し脇に置かせてもらって言うならば、 人間を変えたりはしないようである。

それはドラマティックでスペクタキュラーな経験の連続などでは決してなく、人生を鮮やかに彩ってくれるような魔法でもない。

旅は旅でしかなく、それはしばしば日常の延長のように退屈で、時に苦痛で、そしてこれが一番言いづらいことなのだけれど、僕は相変わらず僕である。

自分自身がとても小さくちっぽけで取るに足らない存在だということを、折に触れて思い出さざるを得ないような出来事や出会いの連続。

それが、少なくとも僕にとっての旅だった。

 

ずいぶん暗い書き出しになってしまったけれど、では、僕が旅に出たことを後悔しているのか、と問われれば間違いなく答えはNoだ。

 

今の僕が自信を持って答えられることの一つが、今最高の仲間に囲まれてセブでの毎日を過ごしているということ。そしてもう一つが、思い切って旅に出て本当によかった、ということだ。

これらは旅を通じて得られた様々な出会いや経験のおかげだと胸を張って言える。

ただ、繰り返しになるのだけれど、それは僕が旅を通じて変化し、成長したからではない。というよりも僕が僕でなくなってしまったならば、多分僕は今セブにはいない。

今ここでこの文章を書いている僕の存在そのものが、僕が相変わらず僕であることの一つの証明なのだ。

旅が僕を変えるのではない。「旅」を通じて自分がなにか自分以外の別の何者かに変化したとするならば、そのような「旅」は旅の形をした何か別のものだと言えるだろう。

そもそも42歳の男性には、伸びしろといえばいいのか、人間が変化するのに必要な経験を受け入れ、それらを昇華し、これまでの自分とは違う別の人生を切り開いてゆくのに必要なのりしろのようなものは(あまり考えたくはないことだけれど)残されてはいないと思う。

人生の曲がり角を少しだけ超えて、ちょっとした経験をそれなりに重ねた人間が「変わる」ということがあるのなら、それは何かを得ることよりもむしろ失うこと、自分がそれまで大切にしていた何かを一つずつ諦めていくこと、背中に背負った荷物を一つずつ下ろしていくことで気づく何かであるような、そんな気がしている。

得ることよりも失うことの方が少しづつ増えてくる。年齢を重ねるとはおそらくはそういうことだ。あまり考えたくはないことだけれど。

そんな話はおかしいという人といるかもしれない。旅は確かに人を変える、と。環境が変わることは自分が変わることに等しいという人もいるだろう。

事実、僕が一般化して語ってしまうことができるほど旅をするという経験は単純なものではない。そこにはおそらく旅人の数だけの旅の形やスタイルがあるはずだ。旅を終えて得られるものが、おそらくは十人十色であるように。

だから旅を終えてひとまわりもふた回りも成長した、という方がいても全く不思議ではないし、そういう人に出会えば素直に「素晴らしいですね」と言って一緒に感動できると思う。

けれど僕に関していえばやはり、僕はどこまでいっても僕だった。

僕には何も、なにがなんでも守りたいような立派な自我のようなものがあるわけではない。

自分自身が大好きなわけでも決してない。捨ててしまえるものなら、そうするのもいいかもしれないとさえ思うことだって少なからずある。

けれど何はともあれ、こうして僕は、この小さな自我という変わることのない無数のパズルのピースを抱え、さまざまな経験を経て地球をぐるっと一回りして元の場所に帰ってきた。

そんなちっぽけな自我の断片の数々とともに、時にその断片を眺め、形を確かめながら、僕はどうにか400日間毎日を過ごしてきたのだ。

3.旅 自分自身に出会うということ

かけがえがないのは僕ではない。僕自身は僕という人間の容れ物でしかない。

大切なものは、その容れ物の中にある僕という人間を形作るさまざまな、不揃いの、不恰好な、無数のパズルのピースの方だ。

表面的な僕はいく通りかの違ったものの見方を持っているし、それを状況に応じて使い分ける事もできる。それが変化したことをもって「変化」とか「成長」というのであればそれはそうなのかもしれない。

確かに旅を通じて僕はそういう「見かけ」のバリエーションやストックをいくばくかは増やしたと思う。けれどその中にある僕という人間を構成するパズルのピースそれ自体は、そう簡単には変わりはしない。

そしてこれだけははっきりということができる。容れ物の中の自分が同じものであり続けるからこそ、僕はどこにでもいけるし、何にだってなれるのだ、と。

僕が僕を形づくるそれらのピースを投げ棄ててしまったら、それは僕の旅ではなく、誰か別の僕に似た誰か別の人の旅になってしまう。

僕の代わりに僕の旅をしてくれるような人はいないしそんなことはして欲しくもない。その誰か別の人に僕の貴重な預貯金を差し出して「じゃあちょっと僕の代わりに素敵な旅をしてきてください。」という訳にはいかない。僕の人生を、僕の代わりに生きてくれる人などどこにもいないのだ。

自分が自分でしかないという事実を涼しく受け入れること。それは自分を経験し尽くすことでしか得られない体験だ。そして旅という経験は自分自身を経験し、知り尽くすための最高の手段の一つと言える。

航空券一枚もろくに買えない、言葉がうまく伝わらない。逆方面に向かうバスに乗ってしまう。強盗(のようなもの)に合う、ぼったくりバーに連れて行かれる、換金所で不正にあう(すべて僕の身に起こった出来事です)・・・。

そういうありとあらゆる不自由に対して概ね自分は無力であり、自分が働きかけて変えていくことのできる現実はあまりにも限られているという現実を受け入れる。

一方で、自分が思いもよらなかった方法で事態を好転させることもできる。仲間の力を借りて困難な局面を打開することもできる。そういう力が自分にもあると気づく。少なくとも僕にとっての旅とはそういうことだ。

そのようにして自分自身を確かめ、受け入れていくというプロセスは、自分を愛するということにどこか似ているのかもしれない。

そしてそういうことができる人生は、それがあまりうまくできない人のそれに比べて少しだけ豊かで、満ち足りたものになるはずだ。今の僕がそうであるように。

旅は、誰もがおそらく持っているであろうそんな満ち足りた人生へのドアを、少しだけ開いてくれるはずなのだ。

そんなことを考えるようになるとはつゆほども考えていなかった僕が、一年前、フィリピンを後にして向かったのがオーストラリア・シドニーだった。

日本での日常から抜け出して、非現実の世界を夢見て旅立った僕は、夢のような時間を過ごしながら、夢と現実の境界線が曖昧になってゆるやかに溶けていくような感覚を経験する。

けれどそれは同時に、「現実」ということについて深く考えるきっかけとなる時間でもあった。

2 件のコメント

  • ある人が、文学とは葛藤である。と言っていました。その言葉にしたがえば、おすぎさんの文章は文学ですね。
    私も20歳のときに、3か月間アメリカを放浪をしましたが、おすぎさんと同じようようなことを感じ考え、今でも、ときどきあの頃のことを考えます。
    それゆえに、今後の連載が楽しみです。

    • Satoさん メッセージありがとうございます。
      文学、というのはおこがましい感じがしなくもないですが(笑)そんなふうに読んでいただいて光栄です。
      旅することや旅人にポジティブなイメージをたくさん抱いているひとには「そんなにいいことばかりじゃないよ」ってメッセージを、逆に旅人に対してネガティブなイメージを抱いているひとには「旅(人)も悪くないよな」っていうメッセージを発信できればいいな、と思っています。
      これからもどうぞ宜しくお願いします。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    osugi

    2016年11月から約400日間、世界を旅してまわっていました。 現在は旅を終えて、フィリピン・セブ島の旅人たちが集まる英会話スクール「Cross x Road」で、素晴らしい仲間に囲まれながら、日本人の生徒さん向けに英文法の授業をしつつ、旅に関するあれこれを徒然なるままに書く、という素敵な時間を過ごしています。