【連載】戦争賛成!の世論を変えたベトナム戦争でジャーナリストが伝えたこと

こんにちは。

今回は連載企画「”魂が震える”世界史の授業」の第3回目です!!

【連載!”魂が震える”世界史の授業】とは・・・

この連載企画の主人公は・・・元世界史教師のまえてぃー

世界史の先生をしていた時、ふと思いました。

世界史の教科書って、教科書じゃなくガイドブックとして使ったら最強じゃない?

  • 世界地図は載ってる。
  • 今では世界遺産になってる場所がたくさん載ってる。
  • 何より先人たちの歩んだ道のりがスゴかった!!

 そして、ただ今、教科書片手に世界周遊をしています。そんなわたしが、ゾクゾクっと来た・・・まさに”魂が震える”ほどの衝撃を受けた場所について授業をするのがこの連載企画!!

第一回目は、カンボジアのアンコールワットでした。

【連載】生きる活力を感じよう!まえてぃーが教えるアンコールワット

そして第二回目は、キリングフィールド。

【連載】眼鏡をかけてたら殺される?300万人が大量虐殺されたカンボジアの悲しい過去

さて、今回はどこで魂が震えたのでしょうか!

わたしがどんな人か詳しく知りたい方はこちらを見てみてください!!

 

「ぼうけんをはじめますか?」

「はい!!」

まえてぃー、ベトナムにたどり着いた

こんにちは!

旅での歴史は出会い、歴旅中のまえてぃーです。

濃く甘みのある香ばしいコーヒー。

お肉たっぷり野菜たっぷり栄養満点のフォー。

朝6時から公園には体操にダンスにバドミントンに明け暮れる人たち。

バイク。そしてバイク。

早起き以外はまえてぃーにバッチリ☆

日本から直行便で約6時間。南北に約1650キロととても細長いこの国は、最近ではリゾート地としても人気が高くなっている国。

そこはズバリ、ベトナム!!

私は今、ベトナムに来ています。

まえてぃーは旅を伝えるためにSNSを始めた

まえてぃー旅に出るようになって変化した所があります。

それは、SNSをするようになったこと。

写真を撮るようになったり、そこで感じた想いを発信するようになったこと。

先生やってる時はそれほど興味も関心もなかったのに、旅に出るようになって色んな景色や出来事やハプニング、その国の魅力や歴史について、誰かに伝えたいって思うようになりました。

日本から離れたからそう思うようになったのかは分かりませんが、フェイスブックやインスタグラムで発信して、その中で新しい出会いや励ましをもらえたり、また進もうって思えたり。

本当にSNSの持つ力の大きさに感動しています。

それと同時に、「これなんのためにやっているんだろう」とか、「うざがられないかな」とか、これまでに無かった悩みを持ったりするようになりました。

そしてそれは、きっとまえてぃーだけじゃないはず。

今回ご紹介する歴旅ポイントはまさにそんなSNSの原点ともいえる場所。

でも、リゾートとはかけ離れた歴史。

“戦争”についてです。

なんで戦争について学ぶの?

まえてぃーは世界史を学校で教えていた時、あることに気づきました。

“世界の歴史って戦争の歴史じゃない⁇”

有史以来人類はほぼ絶えることなく戦争を引き起こしてきました。

そして現在も。

そんな多くある戦争を、一体どうして学ぶんでしょう??

今の世界の成り立ちを知るため?

悲劇を繰り返さないため?

…。

色んな考えがあると思います。

でも戦争に対して、多くの人の想いとして共通しているのは、“戦争は悲しい”ということではないでしょうか。

  • 戦争が起こると死ぬかもしれない。
  • そして自分の大切な人も亡くすかもしれない。
  • 自分も人を殺さなくてはならないかもしれない。
  • 自分の大切な人に人を殺させるかもしれない。

戦争のどこに悲しさ以外のものがあるんでしょう。

ではいったいなぜ、数多い戦争の中で、ここベトナムを紹介したいのか。

ベトナム戦争は、まさにSNSの原点だ!

とある世界史の授業中。

まえてぃー「〇〇戦争では〇〇人の人が亡くなりました。この教室にいるみーんなの命が無くなるってわけ。ね、戦争って悲しいでしょう??」

生徒「・・・。」

  「えぇ、まぁ。。。」

と説明されても実感湧きますか?

戦争は怖い、死ぬかもしれない、そんなことみんな分かってる。

でも経験したことも無ければ身近にも無い。

こちらの写真をご覧ください。(加工してフィルム枠が付いてるわけじゃないです。展示の通りです)

子どもが裸で体を焼かれながら逃げまどうことが日常。

それが「戦争がある世界」ということ。

この写真を見せた時の生徒の表情を見ればわかります。

  • 目を見開く子
  • 寝てたのに起きた子
  • 前のめりになる子
  • 目を覆う子

どんなに詳しい数値や表で説明されても、そこには自ら理解しようとする力がいる。

どんなに詳しく言葉で説明されても、そこには自ら想像する力がいる。

どんな数値で表されるより、どんな言葉で説明されるより、グッと私たちの心に刺さる。

それが、“写真”

世界各国のジャーナリスト達が己の命をかけて伝えた戦争。

それが“ベトナム戦争”

その遺志を継ぐ場所がここ、「ベトナム戦争証跡博物館」

まえてぃーの“歴旅”。ベトナム戦争証跡博物館で、『魂が震えた!!』

ベトナムの最大都市“ホーチミン”。

この町のど真ん中に、この場所はあります。

その前に、ベトナム戦争について簡単ですが触れておきましょう。

第二次世界大戦まではフランスの植民地だった

第二次世界大戦前、ベトナムはフランスの植民地でした。

しかし、大戦中に日本軍がフランスを追い払い日本の統治下となります。

が、日本の敗戦により再びフランスがベトナムを植民地にしようと動き始めます。

それに対し、ベトナムは「独立」を掲げ戦います。

これがインドシナ戦争(1946年~54年)です。

当初優位に立っていたフランスでしたが、ベトナム軍の徹底した抵抗に勝つことは出来ず、1954年、和平交渉が行われフランスはベトナムから撤退します。

しかし、代わって介入してきた国があります。

それが「アメリカ」です。

アメリカは、ソ連の味方がユーラシア大陸で増えることを恐れた

前回の歴旅でお伝えしたカンボジア同様、ベトナムが掲げた社会主義はアメリカの資本主義と反対。

冷戦下に置いてアメリカと仲が悪かったソ連が掲げる社会主義の国が、ユーラシア大陸で増えてしまうとアメリカとしては面白くなかったので何とかして阻止したかった。

南ベトナムに拠点を置いた「アメリカ」と北から完全独立を目指す「ベトナム政府と国民」との戦争をベトナム戦争といいます。

この戦争、1964年~1975年と実に10年もの間続きます。

“どうして自分の国のことを自分たちで決められないんだろう”

博物館には戦争の資料や実際に使われた爆弾や戦車が展示してあり、その規模を肌で感じることが出来ます。

アメリカ軍がベトナムで使用した爆弾の量は424万トン。

これは太平洋戦争中、原爆を含めた日本への爆弾投下量(16万トン)のおよそ26倍になります。

日本よりも面積が小さいベトナムは、その弾薬の影響で地形が変わったとも言われています。

ベトナム戦争がジャーナリズムの革命となった

ここまでは「あぁどこにでもある戦争の博物館か」と思うかもしれません。

しかし、このベトナム戦争証跡博物館のメインホールはこのような展示になっています。

1つ1つの写真が額縁に飾られていて、それはまるで「写真展」のよう。

そう、これこそが命を懸けてベトナム戦争を世界に伝えたジャーナリスト達の功績の数々なのです。

今でこそ私たちは、さまざまなメディアに触れることができ、「戦争」と聞くと罪もない人々が亡くなる悲惨な状況をイメージすることができますが、それまでは軍から流れてきた情報を伝えるだけだった報道機関。

つまり、「戦争報道」というものは、自国が自国に対して行うものが多く、国民の士気を上げるため、または下げないために利用されるものでした。

実際、日本が参戦していた第二次世界大戦でも、負けた戦いを勝ったこととして報道されたり、都合の悪い部分は報道されなかった歴史があります。

“情報は、左右できたのです”

しかし、情報技術の発達や国際化に伴い、自国はもちろん、他国のジャーナリスト達も戦争について報道することが出来るようになりました。

「国の視点から」という見方だけでない“戦争”を私たちはこのベトナム戦争で初めて知ることになったのです。

そこで彼らがとらえたのは戦争の“日常”。

いえ、“真実”といった方がいいのかもしれません。

その戦争がもたらしている残酷ともいえる日常の風景を、私たちは初めて知ることになりました。

ベトナム戦争に参加した各国のジャーナリストたちプロフィールを添えて一人ずつの記述があります。もちろん日本人ジャーナリストの記載もあります。

映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」のモデルとなったカメラマン。一ノ瀬 泰造氏。

現在も行方不明となっているジャーナリスト達。14人もの日本人ジャーナリストが命を落とした。

ジャーナリストが伝えたベトナム戦争の”真実”とは・・・

各写真に添えて、撮影したジャーナリストの手記も読むことが出来ます。

アメリカ軍はベトナムには少数民族が多数存在していることを知らず、農村部の農民も全てゲリラ(敵)だと認識し、戦争に関与していない村を焼き払い、多くの農民の命を奪いました。

アメリカ兵の手記にはこう書かれてありました。

「農民でも“敵とみなす”と命令があれば攻撃対象になる」と。

手記:農村から追い立てられる男性。私には普通の農民に思えるが、米兵にとっては攻撃の対象になった農村は敵地であり、そこの住人は敵となる。

 

教科書(世界史・東京書籍)にも掲載されている沢田教一氏による「安全への避難」も間近で見ることが出来ます。

苦戦するアメリカ軍

当初アメリカは戦争はすぐに終結すると思っていました。

もちろん自分たちの勝利で。

しかし、ベトナム軍の徹底した抵抗にアメリカ軍は苦戦を強いられていました。

ベトナムの指導者「ホー・チ・ミン」は「奴隷として生きるより、生贄に殉じよう」と国民に呼びかけ国民もそれに応えます。

国民すべてが、独立を果たすためにアメリカと戦っていたのです。

ベトナムは広大な密林に囲まれた国で、ベトナム軍はその地形を利用しゲリラ作戦にたけていました。

一方、アメリカ軍は慣れない密林での戦いに苦しんでいました。

その結果もたらされた「枯葉剤」の悲劇

その結果もたらされた作戦が「枯葉剤の散布」

高濃度のダイオキシンという化学物質がジャングルに散布され、木々は枯れ果て一瞬で裸の大地となりました。

 

博物館では枯葉剤散布の様子を映像で見ることが出来ます。

枯葉剤

この言葉は聞いたことがある人も多いと思います。

アメリカは枯葉剤をベトナムの国土25%に散布。

農村など26000か所に散布しました。

すると一瞬で木々は枯れ果て、一面が丸裸になりベトナム軍のゲリラ作戦を拒みました。

300万人以上が被害者となり、数十万人が死亡。

その中にはなんと味方であるはずのアメリカ兵も含まれています。

(現在アメリカは枯葉剤の被害をこうむったアメリカ兵には手厚い保証をしているが、ベトナムに対しては一切の保証はしていない)

そして、この一つの作戦が悲劇の連鎖を残したという事実も、ジャーナリスト達は写真を通し残しています。

そう、枯葉剤の影響は母体から子どもへ奇形や先天的な障害を残すという事実です。

手記:全盲のヒエン(8歳)を抱く母ラム。枯葉剤を浴びた父親との間に二人の子が先天盲で生まれた。

下半身が繋がって誕生したベトちゃん、ドクちゃん。

枯葉剤を浴びたアメリカ兵の子供にも先天的な障害が起こるようになりました。

”正義”って何なのか?次々と暴かれる嘘。

アメリカとしてはベトナム戦争は共産主義との「正義を掲げる戦い」でした。

開戦時、国民の戦争への意識は賛成が多数を占めていました。

しかし、各ジャーナリスト達から送られてくる写真や映像。

次々と送られてくる戦争の現実に、アメリカ本国の新聞社やテレビ局は戸惑います。

アメリカは正義のために戦っていると信じていたから。

正義とは、正しいものが「悪」を倒すこと。

でもそこに写っているのは「悪」なんかじゃなかった。

攻撃を受けた子どもが道端で死んでいる姿。

お父さんを殺さないでと懇願する女の子の姿。

女の子たちが武器を取り、独立を目指し戦う姿。

殺されるかもしれない恐怖と共に子どもを抱きしめる母親の姿。

そして、農村を燃やし、家々を焼き払うアメリカ兵の姿。

悲劇の日常の数々をジャーナリスト達は伝えました。

「せんそう」の「せ」の字も知らなかっただろうに。

世界中でこれらの写真や映像が取りざたされるようになりました。

迫られる決断。報道するか、しないか。

しかし、報道することが難しい国もありました。

それが、当事国のアメリカ

アメリカ本国の新聞社やテレビ局、出版社ではこれらを報道するかしないかの選択を迫られます。

明らかに自分たちの行っている戦争は「正義」とはかけ離れている。

そしてこれらを報道し国民に伝えることは、国家の意図に反する恐れを持っていたからです。

しかし、真実を報道することが「正義」だと、国民に写真を通し、伝えていったのです。

実際に掲載された写真と記事も見ることが出来ます。

結果、報道した新聞社やテレビ局は、政府から報道しないようにと圧力がかかりました。

しかし、ジャーナリスト達や報道機関の職員たちの正義を止めることは出来ませんでした。

その映像や写真がアメリカ国内で報道されるようになると、それまで戦争に賛成していた世論が反対に変わっていきます。

最初は「こんなことをアメリカがするはずない!」といった反発もあったようですが、徐々に「アメリカは正義のために戦っている」という自国の在り方に国民が疑問を持ち出したのです。

広がるベトナム反戦運動

そして、国内・国外問わず反戦運動(アメリカ撤退運動)が広がっていきました。

カナダ・オーストラリア・デンマーク・中国・ブエノスアイレス・メキシコ・ハバナ・ドイツ・オーストリア・フィンランド・フランスなど実に多くの国がアメリカにベトナムから手を引くように反戦運動を起こしたのです。

もちろん日本でも。

向けられる銃に花を持って経ち続ける女性。

世界各国で繰り広げられる反戦運動。

世界各国で繰り広げられる反戦運動。

世界各国で繰り広げられる反戦運動。

日本で行われた反戦を訴えるゲリラライブ。その規模と関心の高さが分かる。

横浜のアメリカ軍基地からベトナムへ出港しようとする艦隊を阻止しようとする日本漁船。

戦争に翻弄されるのは、これまでクローズアップされなかったごく普通に暮らしている人々であるということを、ジャーナリストたちは私たちに伝え、人々は平和への行動を起こしたのです。

とあるアメリカのキャスターの言葉にこんな言葉があります。

「アメリカは勝利者への道を捨てるしかない。」

現地の状況に併せて、世論の反戦活動や国外からの非難の声を今度は「国家」に対しても伝えていきました。

その結果、アメリカの当時の大統領ニクソンは和平交渉を始め1973年アメリカ軍が完全撤退、1975年南ベトナムのサイゴンが陥落し1976年南北が統一され「ベトナム社会主義共和国」が成立しました。

インドシナ戦争から含めると約30年もの間、ベトナムは独立と自由のために戦い続けたのです。

アメリカで行われた裁判、これが本当の”真実”だ

これはちょっと余談になりますが、 1971年アメリカでは一つの大きな裁判が行われました。

それは「政府」対「報道」の裁判。

アメリカ軍がベトナムを攻撃した際、その多くが民間人だったという事実を記載した連載を政府が出版社に差し止めるよう訴えたのです。

結果は「報道の勝利」

「報道機関は国に対し奉仕するのではなく、国民に対し奉仕すべき」とする決定がなされ報道の自由が確立されたのです。

確かにアメリカは多くの戦争に参加していますが、そこに疑問を持ち立ち向かう人々も多数存在しています。。

一方、ベトナム戦争時、アメリカの影響もあり、ベトナム戦争報道に規制をかけた日本。 日本ではこれ以降、国際的なニュースを報じることが減り、歌番組やバラエティなどの娯楽番組が増えたと言われています。

だから日本はあんまり海外の報道とかされないの!?とわたしはこの地で初めて疑問を持ちました。

また、「戦争に勝つ=幸せになる」ということではない、ということを私たちに教えてくれる場所でもあります。

戦争では己の正義や勝つために多くの兵力を敵地に送り込むわけですが、最近、アメリカの退役軍人について驚くべきデータが出されました。

なんと、1日に約20人が自ら命を絶っているのです。 その中にはベトナム戦争の経験者も多数存在しています。

勝っても負けても、いや、戦争が起こった段階で悲しみの連鎖は始まってしまうことも胸に深く残りました。

戦争が終わって色を取り戻したベトナム。

ベトナムの首都は今でこそ私たちは「ホーチミン」だと認識していますが、それはベトナム戦争の指導者であり建国の父、「ホー・チ・ミン氏」からとったものなんです。

まえてぃーは現地の人にホーチミンまでの行き方を聞くとき、時折困ったような顔をされました。

首都ですよ。

分からないわけないでしょうと思ったのですが「サイゴン」というと伝わるのです。

理由を聞くと、「ホーチミンは偉大な人だから呼び捨てになんてできない」とその人は言っていました。

なるほど。

偉大な人だからこそ地名になる。

尊敬している人だからこそ呼び捨てにできない。

結果、「サイゴン(旧首都の名前)で呼び続けるのか」と納得。

ベトナム戦争の指導者たちが見せた笑顔。

時間の流れとともに写真もカラーへ。それはまるでベトナムが色を取り戻したかのよう。

日本も縁がある、ベトナム戦争証跡博物館

実はこのベトナム戦争証跡博物館は、日本ととても縁が深い場所でもあります。

ベトナム戦争に参加していた日本人ジャーナリストが多数の写真を寄贈したこともあり、日本人ジャーナリストの写真や日本語表記の説明が常設されてあるのです。

そしてこの展示には日本のカメラ企業「CANON」や「Nikon」も参加しています。

実際に戦地で使用されたカメラも間近で見ることが出来る。

沖縄出身のジャーナリスト、石川文洋氏はこのベトナムに派遣されてくるアメリカ兵は沖縄の基地から来ていることに複雑な思いを寄せている。

被弾した一ノ瀬泰造氏のカメラ(映像のみ)

ベトナム戦争とジャーナリスト。現代の私たちに通じるもの。

ベトナム戦争でジャーナリスト達が出会い、感じたことは、このようなことでした。

  • 現地の人々と一緒にご飯を食べたこと。
  • 村を離れる時、見えなくなるまで見送りをしてくれたこと。
  • 女性は戦闘服よりアオザイが似合うと思ったこと。
  • あの笑顔の少女にもう一度会いたいと思ったこと。
  • 戦争に参加したアメリカ兵までもが今ではベトナムに観光に来られるようになったこと。
  • そして、戦争跡が残る笑顔で写真を撮る人々に平和を実感したこと。

この博物館では、戦争中から戦争後までを私たちと同じ目線で見ることが出来ます。

きっと今の私たちのSNSのあり方と変わらないでしょう。

ただ勝った・負けたを報道するのではない戦争の日常。

そこには私たちと同じように笑顔のステキな人たちがいました。

「知る」ということ。

ジャーナリスト達は今現在も様々な戦地や危険地域で取材をしています。

そして命を落とすこともあります。

「そんな危険な場所に行くなんて自業自得だ」

「写真を撮る暇があったら助けてやれ」

衝撃的な写真が掲載される度に「報道」とはどうあるべきかの議論は起こります。

最初にお見せした子どもが裸で逃げ惑う写真。

あの写真を撮影したのはヴェトナム人カメラマン、ニック・ウット氏。

ニックはカメラのシャッターを切った後、あの子どもたちを自らの手で病院に運びました

そして重症すぎるから治療は無理だという病院に対し「治療を拒んだら記事にする」と豪語し子どもたちの治療をしてもらいました。

そして子どもたちは無事に成長し、ニックのことをニックおじさんと親しみを込めて呼んでいるそうです。

こんなことばかりではないと思いますが、

もし「知ることが無かったら?」

私たちが同じ目にあっても誰も気づいてくれなかったら?

東日本大震災の時、まえてぃーはフランスにいました。

その時、ブランドのシャネルがブランドのロゴを全部日の丸に変えていました。

ベルサイユ宮殿では日本語での暖かいメッセージが添えられていました。

お土産屋さんではまえてぃーが日本人だと知ると肩を叩いて励ましてくれました。

発信してくれる人がいるから知ることができる。

知ることが出来るから行動することができる。

知ってくれる人がいるから生まれる絆や未来がある。

SNSで簡単に発信し、知ることが出来る現代。

旅をしながら写真を撮る人もいると思います。

そしてそれをSNSにのせて発信する人もいると思います。

キレイな景色。

美味しかったご飯。

予期せぬハプニング。

異なる人々との出会いや交流。

どの一瞬もあなたにとってかけがえのない一瞬。

そしてその一瞬が、また誰かの人生にを豊かにする。

カメラマンが撮影し、記者が記事にし、出版社が新聞を出しテレビ局が放送し私たちに伝える。

インターネットを使えばこの一連の流れを今私たちは1人で行うことが出来ます。

でもその前に、このジャーナリストたちの魂のこもった写真に触れてみませんか?

目を覆いたくなる写真の中に、明日への希望がきっと見つかる。

行き場のないSNSにたいする悩みもきっと無くなる。

あなたの写真が“変わる”このベトナム戦争証跡博物館。

ぜひお越しください!!

あなたの写真は”可能性”を持っています。

次回予告

次回の歴旅は秘境“スリランカ”

人を疑うことと信じることを教えてくれる王様に会いに行きましょう。

前回の記事

【連載】眼鏡をかけてたら殺される?300万人が大量虐殺されたカンボジアの悲しい過去

1 個のコメント

  • cross x road の卒業生です。いつも楽しみに読ませていただいてます。私も今東南アジアを旅していて、ホー・チ・ミン、もといサイゴンに滞在中です。ぜひこの博物館を訪れたいと思います。心が震えるような記事ありがとうございました。これからも楽しみにしています。

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    まえてぃー

    旅での歴史は“学び”ではなく“出会い”!!教科書片手に世界周遊,“歴旅中”のまえてぃーです。【元世界史の先生が教える、”魂が震える”世界史の授業】の連載をしています!!旅で訪れた”魂が震える”場所を紹介していきます。