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本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記【第6話】はこちらから。
3−3 ニュージーランド・オークランド国際空港〜ダウンタウン
空港からダウンタウンまでの、退屈な道
大都市の空港からダウンタウンに向かう道で感じる苛立ち。それは日本の大都市とその近郊を結ぶ電車の風景が、日本全国どの鉄道に乗ってもだいたい似通っていることからくる苛立ちに似ている。
埋め立てて作られたような、あるいはそこに空港が建設されるまではおそらくはただの荒野だったようなだだっ広い空間に、航空会社、輸送会社といった空港に関係するような会社のビルが脈絡もなくポツンポツンと立ち並んでいる。
しばらくすると車窓を流れる風景は、郊外のミドルクラスが居住しているのであろう低層の建物が軒を連ねる住宅地のようなエリアから、ドライブスルーの設備があるような駐車場の比較的広いフランチャイズの飲食店が軒を連ねる退屈な国道へと移り変わってゆく。
一貫しているのはその風景が終始退屈であるということだけだ。そしてやがてバスは街の中心部の、渋滞と喧騒の中に飲み込まれてゆく。
そういう風景を眺めていると、満員電車に乗って胃の痛い思いをして通勤していた日本でのあの日々を思い出してしまう。
出張で行った東京の西武新宿線の窓の外を流れる景色が、大阪の京阪電車のそれとほとんど見分けがつかないのと同じように、シドニーでもニューヨークでもシカゴでも、そしてここオークランドでも、バスの外を流れる景色は概ね同じものだった。
オークランドに到着し、ゲストハウスのあるダウンタウンに向かうバスの車内。そんなことを感じていた僕は、少しだけ旅慣れてきたのかもしれないと、その当時は思っていた。
旅に出るまでは、飛行機なんて年に1〜2回乗ればいい方だった。それが今年に入って、もう10回以上飛行機を利用して移動していることになる。
けれどそれは今にして思えば僕が旅慣れてきていた訳では決してなく、孤独で少しだけ虚ろで憂鬱な気分が、徐々に僕を覆い始めるそのとば口であったのだということができる。
オークランドに降り立った時の僕は当然ながらそのように客観的に自分自身の心の中をモニターできるような状態ではなかった。まだまだ旅の序盤で、自分の中の暗い部分にフォーカスできるほど冷静でもなかったのだろう。
あるいは、自分は今自分のしたいことをして生きているんだ、ネガティブになってはいけないんだと、無意識のうちに自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
他人の「当たり前」は自分自身の「当たり前」なのだろうか
ネガティブな感情には常に蓋をすることが求められる。男だからという理由で、周囲がそうするからという理由で、あるいは具体的な個人を思い浮かべることができない「社会」とか「空気」と呼ばれる実態のない何ものかからの要請で。
それが当たり前の世界で生きていると、その当たり前があたかも自分自身の内側から自然に湧き上がってきた感情なり価値観であるかのように思われてくる。道徳であるとさえ思うようになってくる。
そうやって僕たちは、僕たちが属する社会に知らず知らずのうちに(適応ではなく)隷属し、自ら進んで社会に望ましい奴隷のような存在になっていくのかもしれない。
そのように非自発的に獲得した価値観を(というかそもそも非自発的でない価値観というものがあるんだろうか?)自明のことのように他者に強要し、それにそぐわない行動をとる個人を排除したり、嘲笑したりする。他者の当たり前を当たり前に共有することを強制される社会。その一方で自分らしくあることを要請してくるのもまた同じ社会なのだ。
そこに個性だとか、自分らしさといったような価値観は存在し得るのだろうか。そんな風にして得られた自分らしさを、僕たちは「自分らしさ」と呼んでいいのだろうか。強要された自分らしさというものは矛盾ではないんだろうか。そんな自家撞着(じかどうちゃく)にどうして人は無自覚でいられるんだろうか。
2016年7月、僕は仕事を辞めた。精神保健福祉士(国家資格)の資格を取得して15年。4つの職場を渡り歩いた。その時の僕は精神科の病院で相談員として勤務していた。
転職してその病院に勤務するようになったのが前年の2015年4月。
その2015年の上半期。交通事故に遭い、転職があって、母が失踪し、祖母が亡くなり、、、という比較的大きなライフ・イベントが半年の間に立て続けに起こり、様々な心労が重なっていたのだろう。2016年1月、僕の精神はすでに悲鳴をあげていた。
毎日這うようにして仕事に行っていたのだけれど誰もそんな事情を汲み取ってくれはしない。
仕事上のミスも日々増えていった。そのうち誰からも話しかけられなくなっていった。話しかけられる時は仕事のミスを注意される時か叱られる時(か怒鳴られる時)だった。そういう時は決まってそのあと吐いていた。10歳近く年下の相談員の女の子から、他のスタッフの面前で怒鳴られるというようなことが何日か続いたこともあった(患者さんの前でなかったのが良かった)。
そんな当時の僕にとって一番辛かったのが「どうして他のスタッフと同じようにできないの?」という看護師長さんからの叱責だった。その言葉を聞いた時、自分の中で何十年もモヤモヤしていた何かが弾けてしまった。
人と同じようにできない。そもそも人と同じようにしなければならない理由がわからない。それは子供の頃からの僕の最大のコンプレックスだった。自分は人と何かが違う。その何かをうまく言語化して咀嚼(そしゃく)することができない。ずっとそのことを気にしながら生きていた。学校の先生も、偉い人が書いた本も、誰もそのことを教えてはくれなかった。
どうして人と同じようにできないのか。その言葉が結果的には直接的な引き金になって(それはあくまでトリガーに過ぎなかったのであって、決して原因の全てではない)僕は長期の療養に入ることになった。心療内科に通い、抗うつ薬の処方を受けて。そして半年後の7月、僕は仕事を辞めた。
半年の療養期間は、僕の症状からすればおそらく長かったのかもしれない。もうずいぶん良くなっているように思うけど。回復の兆しを見せては元に戻ってしまう僕の症状に主治医は何度も首をかしげた(あるいはかしげてみせていた)。回復を遅らせる原因となっていたものはなんだったんだろうか。あの時先生は直接そのことには触れなかった。
しかしいいまでははっきりとわかる。それは「孤独」だったんだと。
病気療養中、それまでうっすらと続いていた父との関係が崩れてしまった。家族がうつ病にかかっている。そういうのはもうごめんだ、というようなことを言われた。「怖い」と言われたようにも記憶している。そしてそういう人間が自分の息子であるということを受け入れたくないのだ、と。父は昔気質(むかしかたぎ)とは言わないまでも、考えの若干古風な、その年齢に相応しい程度の自分自身の価値観をしっかり持った、つまり端的に言えば少し頑固な、人だった。
前述の通り母がすでに失踪した後で、もうこれ以上の面倒を抱えるのは嫌だ、という父の気持ちはいかばかりのものだっただろう。母は長年アルコール関連問題を抱えていて、僕たち家族の関係はすでにずいぶん希薄になっていた。壊れていた、と言ってもいい。
その当時僕たちは、母がこしらえた何千万円という借金を返済してどうにか一息ついたところだった(ほとんど父が弁済してくれたのだけれど)。そうして母はどこかに消えた。おそらくは新しいパートナーの元へ。そういう状況でこれ以上何らかの助力を父に対して求めるのは酷だっただろう。だから父の気持ちは今となっては本当によくわかる。けれど当時、切実に他者の助けを必要としていた自分にとって、父のその言葉は辛かった。
それは自分は徹底的に一人であると、つまり家族でさえも他人であると、自覚した最初の瞬間だった。
憂鬱な気分の時に下した決断は悪い結果をもたらす。だからそういう時にはできるだけ決断そのものを先延ばしするほうがいい。支援者は焦るクライエント(※)をなだめながら彼ら・彼女らの心的エネルギーが回復するのを待つ。精神科医や臨床心理士をはじめとして、人の心を扱う専門家にとっては常識だ。
けれど当時の僕には退職以外の選択肢はなかった。ここではないどこか別のところへ。誰も僕のことを知らない場所へ行きたい。主治医にはずいぶん反対された。今は決断する時じゃない。僕たちが診察室で交わした会話はほとんどそのことだけだった。
それでも先生の反対を押し切って、この先どうなるのか、この先どうすればいいのか、何もかもが決まっていない状態で僕は仕事を辞めた。
そしてその3ヶ月後に旅に出た。
将来のことはもちろん一週間先のことさえもはっきりしない状態で僕は退職願を書いた。一つだけはっきりしていたのは、もうこの仕事はしたくないということと、日本にはもういたくないということだった。
人事課の人が家の近くの喫茶店まで来てくれて、退職願その他必要な書類にサインをした。季節はもうずいぶん先に進んでいて、外はとっても暑かった。人と話すのは数週間ぶりで、先生以外の人に会うのは何ヶ月ぶりだっただろう。「最後に何か言いたいことはありますか」というようなことを言われた。何かを言ったような気はするが、何を言ったのかは覚えていない。
覚えているのは「人と違うことがどうしてそんなに良くないことなのだろうか?」と、暑さとお薬のせいでぼんやりした頭で考えていたということだけだ。そんなことを、今となっては顔も名前も思い出せないような人事課の人に問うてどうなるだろう。
そして仕事を辞めて旅を終えた今もなお、その答えはまだわからないままだ。きっとそれは簡単に答えを出せるような問題ではないのだ。
(※)僕たちソーシャルワーカーは、対象者のことを「クライエント」と呼ぶ(ことになっている)。支援者と対象者は同等であり、治療関係のような上下関係を支援に持ち込まないという専門職倫理があるからだ。
この記事、そのまま一遍の小説として成り立つように身近で登場する人の吐息の匂いまで感じました。