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5 南極大陸
岡潔(おかきよし)
旅に出る前の一年ほど、数学にはまっていたことがある。というよりも一人の数学者の講演会に足繁く通っていた、といったほうが正確かもしれない。
森田真生氏という独立研究者の方の講演会なのだが、とにかくそのお話が僕のような根からの文系人間にも大変興味深く分かりやすくて、大阪に来られた時のみならず、時にお隣の京都であるとか、果ては瀬戸内海に浮かぶ山口県の周防大島まで赴いたこともある。
当時の僕は病気療養中で基本的に外出は控えるようドクターから言われていたのだけれど、森田氏のお話だけはどうしても聴きたくて調子のいい時はなるべく出かけるようにしていた。森田氏のお話を聴いていると高い山の稜線に分厚くかかったガスが一気に晴れて、もやもやした頭の中がスッキリするような、そんな気がするのだ。
高校数学の「微分・積分」で完全に数学を投げ出してしまった僕が齢40を超えて「多変数解析関数」であるとか、そういった話を嬉々として聴きに行くことになるとは夢にも思ってはいなかった。人生は本当にわからないものである。
その森田真生氏が著書『数学する身体』(新潮社)やその講演会でしばしば言及されているのが「岡潔」という、世界的にも有名な日本人数学者である。
その岡潔の手による『春宵十話』は、僕がこれまで出会った数ある本の中でも最高の部類に入る一冊なんだけれど、これはもちろん数学の本ではない。
数学にその生涯の全てを捧げることによって、真善美や自然、そして生きることについてのある種の観照(かんしょう)に到達した稀有な数学者である岡潔自身によって紡がれた「情緒」に関する考察を中心に編まれたエッセイ集である。
さて僕は今回南極に関する文章を書こうとしている。けれどそれがどうしてもうまくかけるような気がしなくて、書いては消しまた書いては消し、ということを幾度となく繰り返しながら、今日に至っている。
もちろん自分の筆力がいたらないことがその原因であることは重々承知している。
けれどいかなる作家的天才や豊かな文才に恵まれた文筆家といえども、南極のあの情景を的確に描写し言葉に乗せて伝えるというのはかなり骨の折れる仕事なんじゃないだろうかと思う。それくらい、南極は美しかった。
どうしてだかはわからないけど、そんな時にふと思い出したのが「岡潔」と『春宵十話』のことだった。岡潔ならこの雪と氷の世界をどのような日本語で描写するのだろうかと考えずにはいられなかったのだ。
言葉では決して表現することのできない風景
南極から帰ってきて、あるいは南極から帰ってくる船の中で、自分はこれから先も世界中のいろんな場所で様々な絶景を見ることになるのだろうけれど、おそらく南極以上に美しい風景に出会うことはもうないのだろうな、と直感的に理解していた。
ただそのことは僕を少しも暗い気持ちにさせることはなかった。
もちろん旅で出会う全ての風景にはそれぞれの素晴らしさがあって、比較したり優劣をつけたりすることができるようなものではないことは十分わかっている。
風景は、風景それ自体が持つ美しさや魅力もさることながら、それ以上にその風景をどのようなシチュエーションで誰とどんな風に見たかということが、僕たちの心象に様々な影響を与える。
そうして美化され、あるいは少し靄がかかったように僕たちの経験の引き出しの中にそっとしまいこまれた風景がそこを訪れた旅人の数だけあるからこそ、人は他でもない自分自身の足でその場所を訪れたくなってしまうのだ。
それらの経験を比較し優劣をつけたりすることができるような単一のものさしのようなものは存在しない。A地点とB地点を比較してどちらが優れているとか劣っているとかいうのはナンセンスである。人間に優劣をつけることが基本的にはナンセンスであるのと同じことだ。
けれどやっぱり、それが無意味でかつ不毛なことであるとわかっているにもかかわらず、気がつけばいつも目の前に広がる風景と南極のあの風景を比べてしまっている自分がいた。そのことにちょっとした罪悪感を抱いてしまう。
言葉には、そのときの感情や心証の一部を切り取り捨象して表出するという機能があって、というよりもそのような営みそのものが言語活動であると言えなくもないと思うのだけれど、いずれにしても、表現されるべきものとそうでないものを取捨選択し、優先順位をつけることでしか僕たちは他者と言葉を介して情報をやり取りすることができない。
南極に広がっていたあの風景の一部を切り取り、それに適当な言葉を当てはめて表現しようとすることは、なんというかあの場所に対するある種の冒涜のように感じてしまうのだ。少し大げさかもしれないけれど。
ルメール海峡の美しさについて、プレノー湾に浮かぶ流氷と空の青さについて、、、何かを語ろうとすればするほど、言葉はまるで手のひらに載せた粉雪を握りしめた時のように、サラサラと指の間からこぼれ落ちてゆく。
言葉が常に自分が語ろうとしている情景に追いついてこない。あるいは時にそれを追い越してしまう。しばしばとんでもないところにまで行ってしまう。
言葉とは常に言い過ぎるか言い足りないかのどちらかであって、自分の思いを過不足なく言い切れるような言葉はおそらく存在しない。自分の思いを過不足なく伝えることができるような言葉をおそらく言葉とは呼ばない。
南極について何かを書こうとすればするほど、そんな経験を繰り返してもと居た場所に帰ってきてしまう。元来た道を辿って同じ場所に戻ってきてしまう。常に言い過ぎるか言い足りない。まるで愛する人とのいつ尽きるとも知れない言葉のやりとりみたいだ。
世界で一番美しい場所
事実あれからずっと旅を続け、スペインのカミーノ・デ・サンティアゴで怪我をしてしまってやむなく世界一周を中断して帰るまでの間、そして旅を再開して今にいたるまでも、僕があの時そのように直感的に理解した通り、南極以上の風景に出会うことはなかった。
そして今もなおあの時の感動やあの時見た風景をうまく表現する方法が見つからない。
けれど旅を終えて久しぶりに開いた『春宵十話』を読みながら、岡潔ならもしかしたらできるのかもしれないな、といつも思う。
彼が生涯を捧げて理解しようとした「多変数解析函数」の振る舞いは、圧倒的に密度の濃い白であるあまりに青く輝く氷河の美しさや、これまでに見たことのないような赤に染まる南極の夕焼けと同じように美しいのだろうか。
私たち日本人の心にあるという「情緒」は、短い夏以外に季節らしい季節のない南極の美しさを的確に捉えることができるのだろうか。
岡の言う「情緒」は、咲き乱れるスミレの花に見た美しさを、ルメール海峡の静寂の中に見いだすことができるのだろうか。
そしてそういうことを考えるともなく考えながら、南極のことを思い出している時間が僕にとっては今もってなお一番幸福な時間なのである。
誰の心の中にもそういう風景や経験がきっとあって、いつもその場所に戻っていけるような、精神的な故郷のようなものがきっとあるはずで、そういうものを一つでも多く心の中に抱いている人の生はそうでない人々のそれに比べて少しだけ豊かで満ち足りたものになるのかもしれない。
心の中の故郷は時に文脈依存的で、僕たちが変化することでその意味づけも変わりうる。大切だった場所が思い出すだけで胸が苦しくなるような場所に変わる、ということは大いにあり得ることだ。僕にとっての故郷がもはや戻ることのできない場所になってしまっているように。
けれど南極に広がるあの風景だけはいつまでも僕の心の中にあの時のままで存在し続けてくれる、そんな「確信に限りなく近い予感」が今の僕を包んでいる。その事実そのものが、いまもこうして僕の心を満たし続けてくれるのだ。
お久しぶりです。毎回、楽しみに拝読させていただいています。
おすぎさんでも表現が難しい南極、是非、行ってみたいですね。
ところで、帰国予定はいつですか?
お久しぶりです。お返事遅くなってしまいました。
南極、ぜひ行っていただきたいです!
帰国は、5月末を予定しています(^ ^)
>岡の言う「情緒」は、咲き乱れるスミレの花に見た美しさを、ルメール海峡の静寂の中に見いだすことができるのだろうか。
この一文がたまらなく好き。ゆっくり読み進めています。読み飛ばすように読んだらもったいない。そして「疎外感」を感じていない記事に多少の物足りなさを感じつつも、南極という未踏の地に思いをはせてみました。あれだけの写真を撮れているのに「写真では何も伝わらない」と言い切っているところに奥行きを感じました。