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本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記【第33話】(前回)はこちらから。
ローマ・イタリア
村上春樹を英語で読む
先日日本に一時帰国した。僕の地元は大阪なのだけれど、同じ日本でもセブ島から大阪に帰るのと東京に帰るのとでは航空券の金額に若干の違いがあって、やはり東京行きの便のほうがリーズナブルなようである。就航している直行便の数も東京のほうが多いので、このときは成田空港までの航空券だけを手配して、大阪へは帰らなかった。どっちみち大阪に帰ったって実家には向かわずゲストハウスに泊まるのだ。東京で過ごしたってそんなに変わりはしない。
今回の帰国で一週間ほど自由な時間ができることになったので、東京で何人かの会いたかった人に会ったのだけれど、それ以外の時間で皇居を走ることが僕の今回の帰国の大きな楽しみの一つだった。セブではだいたい毎日10kmほどを走っているのだけれど、発展途上国に特有の交通渋滞と大気汚染で、必ずしも快適なランニングであるとは言えない。
セブに比べれば、偏西風の影響を受ける日本の大気はそれがたとえ東京のど真ん中であったとしてもセブよりずっと清涼だ。緑が多くて車の心配をする必要がない皇居ランを楽しみに僕は日本に帰ったと言っても過言ではない。
それからもう一つ、空き時間を利用してしたかったことの一つが「村上春樹を英語で読む」ということだった。ランニングと読書はいずれも僕の大切な趣味の一つで、40歳独身の僕が一人の寂しさを紛らわせ、それを実りあるものにするために、(いまひとつはジャズを聞くことである)それらはどうしても必要なことなのだ。
僕はいまセブにある英語学校で(日本語で)英文法を教えるボランティアをしているのだけれど、たまに授業の無い休みを利用して不定期で「英語で読む村上春樹」という講座を開かせてもらっている。だから英訳された村上春樹に馴染みがないわけではなかったけれど、まるごと一冊を最初から最後まで英語で通読したことは恥ずかしながらこれまで一度もなかった。それを今回の一時帰国を利用してやってみたかったというわけだ。
19歳の時に『ノルウェイの森』を読んで以降、僕は村上春樹の大ファンで、小説に関してはほとんど全て読んでいると思う(もちろん日本語で)。そしてフィクション作家としての村上春樹だけではなくて、彼の生き方そのものをとても尊敬している。その村上春樹の人生哲学のようなものが詰まったのが『走ることについて語るときに僕の語ること』というエッセイ集で、僕がこの本から受けた影響は大きい(と思う)。今回僕が通読に挑戦した村上春樹はその『走ることについて…』の英語版『What I talk about when I talk about running』だ。
書かれている内容そのものは日本語版と同じで、比較的忠実に日本語から英語に訳されているのだけれど、両者の間に横たわる微妙な違いが、つまり言語的な差異に基づくニュアンスの違いが興味深くて、とても面白く読み進めることができた。
そして2017年8月、ローマを旅していた時のことを思い出した。
その村上春樹によれば、ローマは「無数の死を吸い込んだ都市」である。ここではユリウス・カエサルが、たくさんの英雄が、そして殉教者が死んだ。「ローマは死の描写で溢れている」。そしてこの街は、僕が初めて読んだ村上春樹の長編小説『ノルウェイの森』が書き上げられた場所でもある。
そのことは『遠い太鼓』という、村上春樹がローマ滞在時のことを綴ったエッセイ集に記されていて、そのローマという街に村上春樹に抱いたアンビバレントな思いもまた興味深くて、僕は「イタリアに行くならまずローマへ」と決めていた。
コロッセオを過ぎて、フォロ・ロマーノを左手に見ながらヴィットリーオ・エマヌエーレ2世記念堂の前にたどり着く。Wikipediaによれば、ヴィットリーオ・エマヌエーレ2世はイタリア統一戦争に終止符を打ったといういわばイタリア王国の英雄であり象徴的な存在だそうだ。
その彼を顕彰して建てられたという荘厳な建築物の前を西に向かってテレヴェ川の方に歩けば、世界一小さな国「ヴァチカン市国」にたどりつくことができる。ローマならではの狭い路地を抜けたところにナヴォーナ広場、パンテオンなどの観光スポットが突然現れる。そういうエリアを通り抜けていく。建築物の古さと道の狭さが、このあたりが中世以前に拓かれた場所であることを示唆している。どこも世界中からの観光客でごった返している。
ヴィットリーオ・エマヌエーレ2世像の前をヴェネツィア広場の方に折れるとこちらはトレヴィの泉、バルベリーニ広場、スペイン広場といった名所がひしめくエリアになる。この辺り一帯は先ほどの狭い路地が続くエリアとは打って変わって空間の使われ方がとても伸びやかで、僕たちがイメージするヨーロッパの都市の街並みが有する景観がそこにはあった。きっと近代以降に整備された場所なのだろう。
スペイン広場に向かうストリート沿いにはちょっとしたカフェやお土産物屋さんが並んでいて、僕は大体毎朝そのあたりを歩いてエスプレッソを飲んで、クロワッサンを食べた。トレヴィの泉のすぐそばのジェラートショップはいつもお店に入りきらないくらいの人で溢れかえっていて、そこもまた僕のお気に入りだった。
ローマ・東京・京都
ローマは過去と現在、生と死が折り重なるように歴史に塗り込められている街だ。村上春樹の言葉を借りて、僕がローマという街に抱くことになったイメージを端的に表現するとそういうことになる。そのイメージを空想と現実がそっと絡め取ってゆく。「現在」になることのなかった過去と、これから未来になってゆく現在。
朝起きてゲストハウスを後にして街を歩く。その街歩きの舞台がローマであるということは僕の心を明るくしてくれた。休日に大阪城公園をぶらぶら散歩するのとは訳が違う。もちろん、大阪だって様々な歴史に彩られた街であることに変わりはないのだけれど。
そういえば、仕事を辞めてまだ日本にいたときに、一度ノルウェイの森の主人公の二人が歩いたところを歩いてみようと思って東京に行ったことがあった。ローマにいた時と同様、その時の僕は退屈だったのだ。
その時僕が歩いた場所が青山や六本木や四ッ谷だったからかもしれないけれど、東京の街にはやっぱり死のイメージのようなものが漂っていた(あの辺りは大阪人の僕に言わせると墓地ばかりだという印象がある)。そして東京という街は、そういう死のイメージを半ば強迫的に覆い隠そうとしながら発展していった街であるという点で、ローマとは決定的に印象が異なっていた。
強迫的に繰り返されるスクラップ・アンド・ビルドは、日本の経済発展の象徴であるのと同時に、関東大震災の、東京大空襲の、そして敗戦の悲劇を記憶の彼方に葬り去ってしまいたいという日本人の無意識の欲望を表しているように思われて仕方がなかった。
一方でローマは何千年も前から少しずつ時間をかけて、今のような街になっていったのではないかと思う。その死のイメージは、ある程度はソフィスティケートされ、ある程度はむきだしのままで、ローマの街にいたるところ、街角や歴史的建築物の壁や舗装されたアスファルトの道路に塗り込められている。それは質感や肌触りのようなものを伴っている。そこに漂う死の匂いを、僕たちは「歴史」と呼んでいるのかもしれない。
日本が誇る古都・京都には、すべての四つ辻におふだだかなんだかが埋められているという話を聞いたことがある。都市というものは、とりわけ古くからの都市にとっては、鎮魂や鎮守はとても重要なテーマなのかもしれないと思う。それらをどんな風に街の歴史や景観に織り込んでゆくかは、多くの人々が訪れ、生活し、過ぎ去ってゆく「都市」という場所に求められる大切な機能のひとつなのかもしれない。そしてローマという都市は、そのことに大体において成功しているのではないかと思う。
テヴェレ川沿いを歩くのもまた好きだった。「カリギュラは哲学者という哲学者を残らず処刑し、ネロはキリスト教徒をライオンの餌にした。それがローマという街で、貧しい名もなき民は死体をテレヴェ川に投げ込まれた」(『遠い太鼓』)。つまりテレヴェ川もやはり、この街を覆う死のイメージをまとっている。川のほとりというのは、とりわけ都市を流れる河川というのは、きっとそういう場所なのだろう。そういえば京都を流れる鴨川も近代以前は死体を遺棄する場所であったそうだ。鴨川は京都の東の限界で、平安時代は鴨川より西がこの世で対岸は化外の民が住む「あの世」だったという。
余談だけれど、ローマの中心地から少し外れたそのテレヴェ川の対岸にある「トラス・テヴェレ」はライトアップされた石造りの建築物が肩を寄せ合うように立ち並ぶ、石畳の街並みが特徴的な瀟洒なダイナーが軒を連ねるエリアで、世界中から集まってきたであろう観光客でごった返していた。先の鴨川の対岸の歓楽街といえば「祇園」である。不思議といえば不思議な共通性だ。
村上春樹を巡る旅
僕は帰国して最初の数日を竹橋の皇居にほど近い場所に宿を取り、その後新宿に移動した。新宿ではピット・インという老舗のジャズライブハウスに行ったり、歌舞伎町近くのジャズバーで前述の『What I talk about…』を読んで過ごしたりした。その中で村上春樹が、当時経営していたジャズライブハウスをたたんで小説家になることを決意したくだりがある。
村上春樹が1978年4月1日、ヤクルトスワローズ対広島東洋カープのデイゲームを神宮球場の外野席で観戦している最中に「そうだ、小説家になろう」と決意したという話は有名だけれど、その続きが『What I talk about…』には書かれていて(僕はすっかり忘れていたのだけれど)、そう決心した後に彼が万年筆と原稿用紙を購入するべく向かったのが、僕がその時スコッチウィスキーを飲みながらその本を読んでいたジャズバーの直ぐそばにある紀伊国屋書店だった。
新宿に宿を移して以降、僕は毎日洋書をあさりにその紀伊國屋に行っていて(そして皇居を走る日は神保町で一日中ウロウロしていた)、授業で使えそうな村上春樹ゆかりの洋書を手当たり次第購入していたのだけれど、その場所が自分が今まさに読んでいる村上春樹の本の中に登場する、というのは僕のような田舎者にはなかなかエキサイティングな読書体験だ(世界を旅した後では、大阪は極東の「巨大な田舎町」であることは認めざるを得ない)。
実は今回の一時帰国の直前に、語学学校のマネージャーさんとスコットランドとアイルランドを旅していたのだけれど(目的はもちろんスコッチウィスキーとギネス・ビールだ)、それは図らずも村上春樹のエッセイ『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』に収録されている街、ルートと重なる部分が多かった。村上春樹が訪れたのと同じ街に滞在して同じウイスキーの蒸留所を見学して、同じような風景を体験する。悪くない経験だと思う。
セブに戻ってきて英語で“Sputnik Sweetheart”(邦題『スプートニクの恋人』)を読んだ。その中で主人公の男性がギリシャのエーゲ海にゆくくだりがあるのだけれど、原文のクオリティはもちろん訳者の技量からだろうか、その美しい風景がありありと感じられるような気がして、僕はどうしてもそこに行ってみたくなった。
これまでの僕にとって、小説に出てくる土地はあくまでフィクションの延長線上でしかなかった。けれど今はそれが空想上の世界であると同時に現実と地続きの世界でもあるという感覚がある。旅に出る前にはなかった感覚だ。ギリシャは今回の旅では訪れなかった場所なので、いつかこの本を片手に行ってみたいと思った。
僕はこれまで「テーマのある旅」というものにあまり関心がなかった。そういうのはなんだか「あざとい」感じがしていたし、目的もなく世界を回ることだって、十分素敵なことだと思っていたからだ。でもまたもしもう一度旅に出ることがあるのなら、村上春樹ゆかりの地を巡る旅なんていいなぁと思う。彼の旅行記で触れられている場所、小説に出てくる土地。そういうところを訪れることで、これまで読んだことのある本もまた違った印象で読むことができそうだし、村上春樹を読むという営みがよりディープに、インタラクティブなものになりそうだからだ。
そんなものに何の意味があるのか、という人もおられるかもしれないけれど、僕のすることには意味がないというのはこれまで日本で散々言われつづけてきたことなので、今更そんな事を気にしたって仕方がない。その代り(と言っては何だけど)「そういう旅もいいね」と言ってくれるような人に囲まれて過ごしていけるような環境で生活できればいいなと思っている(そして現に今、そういう環境で生活させてもらうことができている)。大切なものや意味なんて本当に人それぞれによって異なるんだし、それをとやかく言う権利なんて、基本的に他人にはありはしないのだ。。
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