【第33話】本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記

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パリ・フランス

パリ症候群

凱旋門の上から望むシャンゼリゼ通り

「パリ症候群」という言葉をご存知だろうか。20代・30代の日本人女性が罹患する適応障害の一種である。フランス、花の都パリでの生活を夢見て渡仏した女性が現地で経験する理想と現実との間のギャップ。それがある種の精神疾患を誘発するくらい大きなものであるという現実とはいかばかりのものだろう。

 

パリに限らないことだけれど、現実と理想とのギャップがもたらす失意・失望は辛くて切ないものがある。恋愛にしても仕事にしても結婚生活にしても「こんなはずじゃなかった」という場面に遭遇した時に経験するネガティブな感情はそう簡単に言葉にできるものではない。そうして言語化できない否定的な感情が鬱積していってやがて心を蝕んでいくのだ。

 

「パリ症候群」についてある程度の知識があって(一応精神科の専門職であるので)、ある程度旅慣れていた僕にとって、その「花の都」がどんなふうに映ったのか、今回はそのことについて縷々述べさせていただきたいとおもう。ただ、最初にお断りしておくのだけれども、僕の今回の記事はパリについてかなり否定的な意見、感想を述べるものになりそうだ。

 

エトワール凱旋門

僕が滞在したパリ郊外−いわゆるバンリュー−からパリの中心地である花の1区までは地下鉄で大体20分程度である。そしてパリという街は、多くの日本人がイメージするのと違って決して美しい街ではない。地下鉄駅にはたくさんのネズミが走り回っていて、決して清潔であるとは言い難い。

 

スリや強盗、恐喝などの犯罪発生率も決して低いわけではない。つい先日、僕がお世話になっている語学学校に留学してくれている、1年半フランスでメイクアップアーティストとして働いていたという女性と話をした。彼女は地下鉄の駅構内でスリの被害にあったことがあるといい、その知人に至っては同じく駅構内の階段で複数の少年に囲まれ貴重品一式をバックから強奪された挙げ句階段から突き落とされて右腕に全治一ヶ月の重症を負うという凶悪な犯罪に遭ったらしい。

 

フランスという国はご存知のかたも多いと思われるのだけれど厳然たる階層社会である。社会的に上層にいる人々と下層にいる人との間には決して超えることのできないギャップが存在し、日本のように社会流動性が高い社会とは異なって、下層の人々が上層への移動を成し遂げることはほぼありえない(らしい)。

 

住む場所も完全に分断されていて、図書館その他の公共施設や文化資本へのアクセスも完全に遮断されている。社会的下層の人々がそのような文化資本にアクセスしようとしたり、社会階層の上昇を試みたりすることはある種のルール違反として暗に、あるいは公然と禁じられているらしい。身につけるものも然りで、例えば僕のような平民がヴィ○ンだとかシャ○ルだとかの品物を所有していることは(しないけど)重大なルール違反であるのだそうだ。彼の国においては身につけるもの・所持品・住む場所その他の可視化される個人の所有物はそのオーナーの社会階層を表す記号であるというわけだ。

 

そんなパリの郊外は「バンリュー」と呼ばれる、低所得者や社会的に低層の人々が居住するエリアで、安宿等が比較的多いエリアでもある。そしてそこでは日本人、韓国人を狙った犯罪が頻繁に発生しているという。韓国人のツアー団体客を載せたバスにピストルを持った強盗が押し入り、乗客の荷物を奪って逃走したというダイ・ハードな犯罪も発生しているというけれど、別にフランスの人はそのことについて特別驚いたりすることもないようだ。「しゃーないよね。なんせバンリューなんだから」というようなものである。むしろそんなところにわざわざ宿泊するアジア人のほうが悪いというわけだ。

 

つまりパリ中心地をはなれると、そこには旅行者にとって他のヨーロッパ諸国の都市に比べて安全であるとは言い難いエリアが広がっているということだ。そしてそこで経験することになる危険や被害は私たちの責任でもあるということになる。なにせそこは「フランス革命」「人間と市民の権利宣言」の、つまり徹底した個人主義の国の首都なのだから。

 

街歩き

グラン・パレ

到着翌日、僕は早速出かけることにした。地下鉄を降りて地上に出ると、そこは「グラン・パレ」である。グラン・パレの正面を右に見ながら歩くと程なくセーヌ川のほとりに出た。セーヌ川はパリの曇り空を川面に移して灰色に濁っていた。いやむしろ、川面の灰色をうっすらと空に向けて広げたような色の雲に覆われていた、と言った方が適切だろうか。「パリ症候群」の原因の一つにこの常にどんよりとした空模様があるんじゃないかと思う。

 

セーヌ川。アレクサンドル三世橋から。左手にはエッフェル塔

アレクサンドル三世橋の上から遠くに見えるのはエッフェル塔である。絵に描いた様なパリの風景は、(描かれた絵には申し訳ないけれど)「いかにも」と言ったありふれた構図で、その風景は限りなくモノクロームに近かった。来た道を引き返してシャンゼリゼ通りを左に折れ、30分ほど歩いたところに凱旋門はあった。シャンゼリゼは並木道の美しいストリートであったけれど、バルセロナのランブラス通りよりは上品さに欠け、シンガポールのオーチャード・ストリートよりはエキサイティングさと言う点で劣っていた。

 

凱旋門はそこに「いかにも」と言う感じで屹立していて、凱旋門を取り囲むラウンド・アバウトから街を射抜くように放射状に広がっている道路はとても威圧的である。僕はその日凱旋門に登ることをやめた。もちろん、後日登った時もさして印象は変わらなかった。余談だけれど、僕の友人でセブ在住の旅人は、凱旋門の下の芝生でバックパックをおいてのんびりとしていた時に、ふと気づくと荷物が一式盗難にあっていたそうだ。時間にしてほんの数分である。全く油断もスキもあったものではない。

 

そういう街を曇り空の下一人で歩く、というのは正直に言ってあまり愉快なものではない。7月のパリは雨が降ると途端に肌寒くなるし、夜中は結構冷える。ノートルダム大聖堂の前では突然土砂降りの雨に見舞われた。シャンゼリゼ通りを歩く僕はそんなに心が躍っていたわけではなかった。ただ、心がそんなに躍っているわけではないという自分をある程度客観的に受け入れてはいた。

 

ノートルダム大聖堂

後日凱旋門に登った後(そして前述の通りそれは僕にあまり感慨のようなものはもたらしてはくれなかった)、シャンゼリゼ通りを東に向かって一時間ほど歩いてみた。コンコルド広場を抜け、ルーブル美術館まで歩く。コンコルド広場はとても広くて見晴らしのいい広場だったけれど、ヨーロッパの街が歴史を盾にして押し付けてくる物語性の過剰を垣間見た感じがして、僕は急いでそこを通り抜けた。歴史なんて、所詮は誰か少数の人間の利益のために都合よく編まれた物語の断片にすぎない。

 

僕はだんだん外出するのが億劫になり、ついには宿に引きこもることになった。そして僕の今回の記事はここからが本番ということになる(ずいぶん長い前置きである)。

 

日本人宿

ヴェルサイユ宮殿

日本人宿はやっぱり心のオアシスだ。あれだけ嫌で出てきた日本なのに、やはり日本人や日本食、そして日本語が恋しくなる。そしてそのようなほとんど生理に近い欲求を満たしてくれるのが旅中に立ち寄る日本人宿である。一人旅の寂しさと不安を抱えながら旅していた僕にとって、そこはとても貴重な安息の地だった。

 

もちろん日本人宿以外にも本当にいろんな宿に泊まった。いい宿もあったけど、悪宿だってたくさん経験した。雨漏りのする居室、汚水が逆流してくるシャワー室、水が流れないトイレ。10人部屋で突然セックスを始める欧米人と同室になったこともある。穴の空いたベッド、夜中中這い回る害虫。数え上げればキリがない。

 

そんな僕が自信を持って言えるのが、このパリで僕が利用した宿が、残念ながらこの世界一周で経験した最悪の宿であるということだ。更に悲しいことに、そこは他でもないオアシスであるはずの、僕にとって安息の地であるはずの「日本人宿」だったのだ。

 

パリに到着したその日、空港から一時間ほどかけてパリ郊外のその日本人宿にたどり着いた。一階が飲食店になっている低層のビルの2階で、アパートの一室を宿泊施設として開放しているようだった。呼び鈴を鳴らして中には入ろうとするけれども誰も出てこない。階段室は暗くてゴミが散らかっている。清掃があまり行き届いていないようだ。

 

扉をあけて中に入るとリビングのような場所で一人の男性がくつろいでいた。年の頃は20代後半だろうか。僕がリビングに足を踏み入れた時、彼はテレビか何かを見ていたようだった。今日から5日間宿泊の予約をしているものなのですが。日本語で話しかける。けれどその男性の口から発せられたのはフランス語だった。

 

当然意味がわからない。僕は日本語を解さない方なのかと思い英語で話しかけてみると、今度はとても流暢な日本語でその男性から返事が帰ってきた。「僕はここの管理人ではありません。宿泊客です。管理人は不在にしています。予約のことはわかりませんが、とりあえずソファで寛いでればいいんじゃないですか。明日には管理人が戻ってきますから」。横たえた体を起こすこともせず、その横柄な感じの青年は答えた。

 

その内容のあまりにもぶっきらぼうで無礼な感じに少なからず僕は驚いた。なにより日本語で話しかけた僕に、日本語が話せるにもかかわらずフランス語で返答したことの意味がよくわからない。日本人宿を訪れるアジア人旅行者が母国語以外の言語を話す確率として英語とフランス語ではどちらのほうが高いか、そんなものは考えなくてもわかるはずである。そもそも、何を言われたか理解できなかったのならもう一度聞き返せばいいだけのことだ。ダラダラとフランス語力を開陳する必要がどこにある?

 

件の管理人は明日ではなくその日に帰ってきた。予約表を確認してもらって料金を前払いする。時刻は夕方で外出していた日本人宿泊者もちらほら帰ってきていた。一通り挨拶を済ますのだけれど、どうもみんな言葉や態度に険がある。僕がフランス語を解さないことがわかると、彼らはフランス語で話しだした。たまにこちらを見ながらフランス語で何かを言い、そして爆笑した。

 

晩ごはんは宿が用意してくれたのだけれど、みんなあまりそのご飯は食べなかった。身も蓋もない言い方をすれば、まずかったのだ。宿泊者の中にフランスのレストランで働いているという男性がいて、彼が何人かの宿泊者の女性と連れ立って買いに行った食材でこしらえた料理を皆で食べるのが恒例になっているようだった。

 

後からわかったことなのだけれど、その時の宿泊者の大半はフランスで仕事をしている日本人で、バカンスでパリに来て、この日本人宿に長期で宿泊しているということのようだった。そんな彼らが独自でこしらえた食事やワインのつまみが僕にまわってくることはなかった。

 

どうやら彼らのコミュニティに、僕は部外者として足を踏み入れたみたいだった。フランス語が話せない、フランスにも住んでいない日本人などには何の用もないみたいだった。彼らは僕にいかなる関心も示さなかった。あるいは示さないふりをした。仲間たちにだけ理解することのできる言葉で話し、自分たちの知り合い以外の人間を排除する。僕がこれまで世界中の日本人宿で経験してきた親密さとは正反対の冷たい空気がそこには流れていた。

 

彼らは悪い意味でフランスという社会に染まっているのかもしれない。経済的な豊かさや学歴、所持品といった指標が記号的に作用し、階層化を強化する社会の中で、この宿の日本人は少なくとも「フランスで働いているか否か」「フランス語が話せるか否か」を主な差異指標として採用し、フランス人と同じように振る舞って見せているのかもしれないと僕は思った。端的に言って、そこはとても不快な空間だった。僕が旅で訪れたどんな場所、空間よりも不快で窮屈な場所だった。

 

思っていたのと違う

ルーブル美術館

冒頭にも書いたけれど、「思っていたのと違う」という状況はとても辛くて悲しいものである。旅人として訪れることになるパリに関しては「思っていたのとは…」ということはなかったのだけれど、まさかの日本人宿で「思っていたのと違う」を経験することになって、僕の心はとても沈んだ。

 

僕は40歳の時に10年以上の精神保健福祉士としてのキャリアの集大成として最後の転職を経験した。この職業界隈では不思議な事に、患者さんやクライエントさんの悪口を言うことで細やかなストレスのはけ口としているという人が結構いて、それは僕にとってあまり気分のいいものではなかった。少なくともそういう振る舞いは専門職としての仕事のパフォーマンスに良からぬ影響を及ぼす。

 

そして日本におけるおそらくほとんどすべての職場がそうであるように、同僚や上司の悪口を言う事で日頃鬱積した不満を解消するというストレス・コーピング戦略を常態化させている人たちがいくつかのグループを作って、ある特定の人なりグループなり考え方なり価値観を攻撃したり、排除したりしていた。

 

転職して意識の高い職場に移れば、そんな誹謗や中傷からは無縁の環境で、患者さんを中心にした気持ちいいソーシャルワークができるかもしれない。その時の僕はどういうわけか、自治体病院の精神科=レベルが高い=意識が高いという、今考えてみればなんの合理性もありはしない等式を何の疑いもなく信じていた。

 

そうして転職した自治体病院の精神科はこれまでのどんな職場よりも誹謗と中傷が渦巻いていた。彼らは患者さんをたしかに愛してはいたけれど、そこで生じた歪のようなものをコ・ワーカーに振り向けているように僕には思われた。ご自身たちの仕事がうまくいかないのはご自身と、対象者であるクライエントと、ご自身たちが日頃仲良くしている人たちを病院職員全体から差し引いたあとに残った他者たちの責任であると言わんばかりだ。

 

不機嫌な彼ら・彼女らが他者を非難するときのそれは凄まじかった。本人を前にしていないときのそれは質の悪い「呪い」のようなもので、本人を前にしているときは純粋なる「罵倒」だった。そこにはいかなる敬意も尊敬もなかった。

こんなはずじゃなかった。そして同じように青信号で車にはねられたり、仲良くしているはずの両親がいきなり離婚して母が失踪したりといった「こんなはずじゃなかったこと」が立て続けに起こった2016年に、僕は心を病んだ。

 

だから僕には「パリ症候群」の発症機序が痛いくらいに理解できる。僕が2016年の冬に経験したあのときの精神状態を思い出すことになろうとは。ここパリの日本人宿で、日本人的な感性を維持しつつフランスの個人主義の負の側面のみを選択的に内面化したかのような不快な人たちによって、あのときのネガティブな思い出や感情が一気に湧き上がってくることになったのだった。日本に置いて出てきたはずのあの感情が、日本から遥か遠く離れた花の都、パリで。最悪である。

 

シャンゼリゼ通り

最後にいくつか補足しておきたいことがある。まずひとつ目に、これは当然のことだけれど、あの日本人宿で出会ったすべての日本人がこのような人たちだったわけではない。まぁバカンス組については僕はいかなるフォローもするつもりはないけれど、何人かの旅人さんとは本当に楽しくおしゃべりすることができた。学校の先生や、世界の名峰を中心に旅して回っている夫婦、こういった人とのひとときはとても心癒されるものだった。

 

もしかするとこんな風に言う人がいるかも知れない。「その時の宿泊者がたまたま感じが悪かっただけで、それは宿のクオリティとは関係がない」と。そんな人には僕が出発する前々日に、その宿に南京虫が発生したということをお伝えしておこうと思う。その南京虫への対応は残念なことに翌日で(すぐに対処しなかったのだ)、何らかの殺虫剤を撒いて駆除したとのことだったが、その後その宿を利用した別の仲間の旅人がその宿のその部屋で南京虫の被害にあった。

 

南京虫の発生は宿にとって致命傷になる。口コミで南京虫のことを書かれた途端にその宿は宿泊客が半減するという。だから僕はその宿の名前を個々に公表しない。後に続く日本人の旅人にとってそれは有益な情報になるのかもしれないけれど、僕の中に最後に残った良心の欠片がかろうじてそのことを思いとどまらせている。いずれにしても、彼らは集まるべくして集まるべき場所に集まっているのだ。宜なるかな、である。

 

最後にこれはどうでも良いことなのだけれど、僕はこのパリ滞在中に42回目の誕生日を迎えた。当然のことながら誰にも祝ってもらってはいないし、そもそもそんなこと(今日が自分の誕生日であるという告白)をしようなんて思いもしなかった。僕はパリでなんとなく一つ年令を重ねた。それについては「こんなはずじゃなかった」のか、そうでなかったのかは今ひとつ自分でもはっきりしない。

 

僕は「世界一周中に迎える誕生日」というものを特別なものにしたかったのだろうか?はたまたこれまでの誕生日と同じように、1/365日として一人でひっそり迎えることを望んでいたのだろうか?今となってはどっちだっていいのだけれど、一つ言えるのは、もうこれ以上「こんなはずじゃなかった」は経験したくないということだ。

 

人間は失敗から学ぶことができる。失敗の唯一の効用は、そこから何かを学び取ることができるということだ。人間には常に正解を引き当てる能力などというものは備わってはいない。だから僕たちは、「こんなはずではなかった」という経験から引き出しうる限りのものを引き出して前に進んでいこうとする。

そのために大切なことは「俺は失敗などしていない」「全ては想定内である」と強弁することではなくて、自分はいかにしてそのとき「こんなはずじゃなかった」未来を引き寄せてしまったのかについて思いを巡らせることだと思う。それはなかなか辛くて骨の折れる作業なのかもしれないけれど。

エッフェル塔

(参考図書:『街場の現代思想』内田樹 文春文庫 2008年) 

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ABOUTこの記事をかいた人

osugi

2016年11月から約400日間、世界を旅してまわっていました。 現在は旅を終えて、フィリピン・セブ島の旅人たちが集まる英会話スクール「Cross x Road」で、素晴らしい仲間に囲まれながら、日本人の生徒さん向けに英文法の授業をしつつ、旅に関するあれこれを徒然なるままに書く、という素敵な時間を過ごしています。