【第35話】本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記

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ドゥブロブニク・クロアチア

地震

バニエ・ビーチ越しに眺めるドブロブニク旧市街

クロアチアの「ドゥブロブニク」という街のゲストハウスで、夜中突然目が覚めた。ベッドが激しく揺れている。「地震だ」と瞬時に思った。それから体を起こして実際に避難しようとベッドから這い出ようとして、ある程度状況がクリアになってきた。僕はそのままベッドに戻って、しばらく時間をやり過ごすことに決めた。スマートフォンで時間を確認した。時刻は午前3時過ぎである。

 

2017年7月21日エーゲ海を震源とするM6.7の地震がギリシャ・トルコを襲った。この時僕はパリにいて、この旅で最も退屈で苦痛な毎日を過ごしていた。この後イタリア、そしてクロアチアへと地中海沿いに移動して行く。それから北上し、8月末にデンマーク・コペンハーゲンで親友である「まんぷく夫婦」と落ち合うのだ。

 

この時の地震は、その「まんぷく夫婦」がまさにそのトルコを旅していた時に発生したものだ。まんぷく夫婦は僕がセブの語学学校で出会った同期入学生、いわゆる「バッチメイト」のカップルである。夫婦で世界一周をするために、彼らはそこにきて、僕たちは出会うことになった。彼らは西回りで、僕は東回りで世界を一周する。時期的に8月くらいにヨーロッパで会えそうだね。そんな話をして、僕たちは別れた。

 

待ち合わせのために、僕たちは比較的頻繁に連絡を取り合っていた。デンマーク・コペンハーゲンで落ち合う。そのあとアイスランドに飛んで、レンタカーでアイスランドを10日間かけてラウンドするのだ。

 

そんな時に二人から聞いたのが、先ほどの地震の件である。二人の無事を確認して、僕はほっとした。そして上述の通り、これから僕はイタリア、クロアチアと地中海沿岸を旅することになっている。気をつけてね。彼らの温かいメッセージに励まされて、僕は一人旅を続けていた。そして8月1日、ローマからドゥブロブニクに降り立ったその日の夜半、僕は尋常ではない揺れを感じて飛び起きた、というわけである。

 

 

旧市街をぐるりと囲む城壁を歩く。

そのゲストハウスは宿泊予約サイトで見るのとはおよそかけ離れたものだった。まぁよくある話だ。「アドリア海の真珠」と呼ばれるその美しい城塞都市のその宿はとても素晴らしいものに違いない。そんな期待は見事に裏切られた。実際に通された部屋は、ひしめくように並べられた6台の二段ベッドが居室中央の一坪程度の空間を取り囲む、狭くて湿気とアルコール臭の強い、とても清潔とは言い難い空間だった。

 

その中央のエアポケットのような空間に他の宿泊客の荷物が乱雑に投げ出されている。脱ぎっぱなしの衣服が、整髪料が、そして下着が、開けっ放しのトランクケースに仕舞われる事なく床一面に広がっている。男性用のものと女性用のものが入り混じったその中を、他人の服を踏まないように歩くのはとても骨が折れる。

 

僕はその部屋の一番奥に設置されていたベッドをとった。そのベッドが唯一下段が空いているベッドだったからだ。上述のアルコール臭はその近くのチェストの上に栓を抜いたまま放置されていたワインとウイスキーによるものだった。あるいは僕の隣のベッドで気を失ったように眠っていた20代前半と思しき白人男性の呼気によるものだったのかもしれない。

 

とてもじゃないけどこんな空間でリラックスなんてできない。荷物を置いてすぐ、僕はその部屋を出た。アドリア海に沈む夕日がドゥブロブニクの赤い屋根の街並みを黄金色に染める。ゴシック・ルネサンス様式のスポンザ宮殿が西日を受けて光り輝いている。その表情豊かな美しい建築を眺めながらディナーを楽しむ観光客の笑顔が、黄金色に染まる街に彩りを添える。街を一通り歩いたあと−ドゥブロブニクはとても小さな街なのだ−宿の近くのハンバーガーショップで一人で食事をして、その隣のアイリッシュパブでサッカーの試合を見ながらカールスバーグのドラフトビールを2杯飲んだ。

 

スポンザ宮殿と、その前の広場。

部屋は相変わらず散らかったままだったけれど、ゲストはみんな出払っていて人は誰もいなかった。アルコールの匂いに代わって、部屋にはコロンの香りが満ちていた。シャワーを浴びてベッドに潜り込む。この日の朝早くローマを出てようやくここまでたどり着いた。あたりはもうすっかり暗くなっている。知らず識らずのうちに僕はまどろんで、そして夜中に冒頭のあの揺れを感じた。

 

あの揺れの正体は地震ではなくてこういう事だ。つまり僕のベッドの上で男女がセックスをしていたのだ。僕は最初揺れを感じて目が覚めたのだけれど、それとほぼ同時に女性がすすり泣くような声に気がついた。それから男性が低く囁く声が聞こえた。内容は聞き取れなかったけれども、それはとても甘くて何かを慈しむような声だった。そしてベッドが一定のリズムで揺れている。おいおい、と思った。

 

外国のゲストハウスではそういうのが時々あるということは聞いたことがあった。日本に比べていろんなことが随分オープンなのだ。けれどさすがにそれが自分の寝ているベッドのすぐ上で行われているというのはなかなか経験できるシチュエーションではない。その時の僕はすっかり気が動転してしまって、その状況を面白がることなんてとてもできない。

 

僕が下手に動いてもし気づかれてしまったらちょっと気まずい。なんだかわけのわからない気を使ってしまって、僕は再びシーツに潜り込んだ。トイレに行きたい。ビールなんか飲まなければよかった。でも我慢できない。どうしよう。ベッドは相変わらず一定のリズムで揺れている。時々揺れが激しくなったりする。やれやれだ。

 

大通りを一つ入ると人一人がようやくすれ違うことができる程度の路地がある。

適当なタイミングを見計らって用を足した後、僕は外の空気を吸いに出た。少し湿気が強かったような気がしたけれど、ゲストハウスに面した路地の前の階段を降りて通りに出ると、それなりに爽やかな風が吹いていた。四方を壁で囲まれた城塞都市にどうして風が吹き抜けるんだろう。ひんやりとした石畳みの道は心地よくて、人は誰も歩いていない。それでなんだか理由はわからないけれど、僕は涙が出てしまったのだった。

 

部屋に戻るとどうやらその行為は終わっていたようだった。そして僕の枕の上には使い終えたコンドームが置かれていた。枕元には20クーナ。チップというか迷惑料というか、そんなつもりで上の二人が置いたに違いない。お金を払いのけてベッドに横になった。コンドームはティッシュにくるんで近くのゴミ箱に捨てた。前日は移動で少し疲れていたので程なくして眠りに落ちた。

 

それからどれくらいの時間が経ったのかわからない。今度は突然部屋の明かりがついて”Party! Party!!”と叫びながら複数の男女が部屋に入ってきた。Bluetoothスピーカーで大音量の音楽を鳴らしながら、彼らは叫びそして踊るのだった。

 

僕は本当に訳が分からなくなった。さっきまで僕のベッドの上の段で行われていたことといま行われていること。その男女のグループのうちの一人が部屋の明かりを点けたり消したりしながら何か英語で叫び続ける。多分クラブだとか、そういう場所を演出しようとしているのだ。

 

おそらくクラブの営業が終わって帰ってきたのだけれど、彼らはまだまだ踊り足りなかったし飲み足りなかったのだ。それでこのゲストハウスをクラブに見立てて踊っているという訳だ。お酒の他に、ちょっと嫌な匂いがした。多分なんらかのドラッグがキマっているのだろう。上のカップルはすでに眠っていたか、眠っているフリをしていた。

 

もちろんそんな状況で眠れる訳なんかない。僕は諦めて再度部屋を出た。その乱痴気騒ぎの中を突っ切って外に出た。辺りはうっすらと白みかけていて、人影もちらほら見えた。スポンザ宮殿の前の広場のカフェが朝の営業の準備を始めていて、石畳の通りを猫がなんとなく歩いている。そんな中を僕もなんとなく歩いて、なんとなくその辺りの石畳の階段に座り、1時間ほどぼんやりとしてからまたゲストハウスに帰った。

 

部屋はさっきまでの騒ぎが嘘のようにしんとしていて、僕は静かにベッドに横になる。また涙が出てきて、今度のそれはなかなか止まらなかった。声を出さないように泣くのが難しい。嗚咽だった。

 

そんな風に泣いたのはいつ以来だっただろう。

 

 

感情表出

滞在中、ボスニア・ヘルツェゴビナに行ってきた。写真は国境付近。

いつの頃からか、感情の表出をうまくコントロールできない自分に気づいていた。そのことは僕を生きづらくしていたように思う。適切なタイミングで適切な感情表現ができない。歳をとるにつれて多少器用にはなっていった。怒りとか悲しみといった感情はうまく飲み込むことができるようになった。嬉しい時や楽しい時は若干大げさにそれらを表現できる。社会生活を円滑にしてゆく上で、そういうのは多かれ少なかれ有益だったと思う。

 

それは別の言い方をすれば、自らの情動と、表出される感情との間のずれに鈍感になってゆくということでもあった。自分が怒っているのか悲しんでいるのかがわからない。楽しいのか、本当は苦しいのかがわからない。そういうことがしばしばあった。例えば後者のような両価的な感情については、僕はフルマラソンを走ることを通じてある程度理解し、消化(昇華)していった。苦しみを喜びに置き換える能力は(諸刃の剣にもなり得るけれど)、大体において人間をある高みへと誘ってくれる。

 

けれど「怒っているのか悲しんでいるのかが分からない」という状況が僕にとっては一番厄介だった。それは「自分が傷ついているのか、傷つけられたことに対して反応しているのかが分からない」と言い換えることできた。不快なのか、不快にされられたことを憤っているのか。それがわからない。そんな時、どうしたらいいのか分からなくなって、僕はうっすらと微笑んでしまうのだ。少し俯き加減で、目の前のことと、自分自身から目をそらすように下を向きながらうっすらと笑うのだ。そうして感情の嵐が過ぎ去るのを待つ。

 

僕の寝ているベッドの上段で男女がセックスをしている。それからたくさんの外国人が部屋に入ってきて大音量で踊り始める。夜中に2度も起こされて、イタリアから移動してきたばかりの僕はとても疲れている。一人で生きていることが辛い。僕も誰かと肌を合わせたいと思う。僕もキューバでそうしたように誰かと一緒に踊りたいと思う。15年間の職業生活が本当に辛かったと思う。

 

写真はボスニア・ヘルツェゴビナの世界遺産「スターリ・モスト」

「今何時だと思ってるんだ。出ていけ!」と伝える。あるいは「ごめんなさい、僕は今日とても疲れているんです。だから僕のベッドの上の段で騒がしくするのはやめてもらえませんか?」と提案してみる。それも一つの解決方法だっただろうし、むしろ外国ではそうすることが求められるのかもしれない。それが嫌なら出ていけばいい。あるいはそんなところに宿泊せざるを得ないくらいの収入しか無いのは僕のこれまでの40数年に渡る怠惰の結果だという人もいるかも知れない。事実それに近いことを言われた。悔しいのなら旅をやめるか個室に宿泊できるくらいの経済的余裕をもってくるべきだと。おっしゃる通りなのかもしれない。

 

でもあの時僕は泣いた。42歳の男がずいぶんみっともない話ではある。けれどもう随分長い間泣くことをやめていた僕にとって、涙は懐かしさを伴う温かいものだった。自分の体から、こんなに柔らかくて温かいものが流れるのか。そのことが少し嬉しくさえあった。

 

感情それ自体を扱うことは難しい。けれど物質性を帯びた涙という液体なら、僕たちはそれを感じることもできるし、触れることもできる。それを拭うこともできるし拭ってあげることだってできる。つまり泣くことによって、自分自身を含めた他者と、感情という複雑な現象を共有することができる。涙は弱さや脆さの象徴だけなのではない。それは優れて人間的な営みだったのだ。

 

そんな風にして、僕はあのアドリア海に浮かぶ宝石のような街に、自分がこれまで経験してきた様々な否定的な思い出を、そこから惹き起こされる様々なネガティブな感情と一緒にそっと置いてきたのだと思う。それが、僕がここドゥブロブニクで経験したことの全てだった。もちろん辛かった日々それ自体がなくなるわけではない。けれど僕はやっぱりどうしてもここにきて、その涙を流す必要があったのだ。

 

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osugi

2016年11月から約400日間、世界を旅してまわっていました。 現在は旅を終えて、フィリピン・セブ島の旅人たちが集まる英会話スクール「Cross x Road」で、素晴らしい仲間に囲まれながら、日本人の生徒さん向けに英文法の授業をしつつ、旅に関するあれこれを徒然なるままに書く、という素敵な時間を過ごしています。