【第10話】本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記

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4−2 アルゼンチン プエルト・イグアス

南米恐怖症

ブエノスアイレスからイグアスの滝へは飛行機を使って移動した。だからブエノスアイレスの街は観光していない。

ブエノスアイレスでの滞在は、アルゼンチンの玄関口、エセイサ国際空港の周辺のみに留まることになった。

多くの日本人がそうであるように僕もまた、「南米=怖い」という先入観に支配されていた。ちなみに3ヶ月以上南米を旅し、一年以上旅を続けた今となっては南米は間違いなく再び訪れたい場所の一つである。

したがって、僕が旅を始める前に南米に対して抱いていたイメージはもはや「南米フォビア(南米恐怖症)」と言えるくらいひどいものであったと認めざるを得ないのだけれど、当時はまだまだ旅に不慣れだったし、トラブルもまた旅のスパイスの一つであるというような達観には全然至ってはいなかったのだ。

そんなわけなので、ブエノス・アイレスでの滞在は空港周辺に留めることにしてトラブルを最大限回避できるように配慮した(つもりだった)。

ブエノス・アイレスはあくまでトランジットのためだけに訪れる街だった。だから多くの旅人がそうするような、ブエノスアイレスのバスターミナルから南米の長距離バスを利用して「プエルト・イグアス」の街まで移動するというような選択肢は、当初から僕の頭の中にはなかったわけである。

ブエノス・アイレスのバスターミナル周辺は、治安の悪いことで有名なエリアの一つであるということはあらゆる旅人のブログなり話に共通している。

にもかかわらず、前回の一件(こちら)である。

この時点で、僕の旅に対するモチベーションは少し下がっていた。アルゼンチンは嫌いだ。なんでこんな思いをして旅をしないといけないんだ。そういう気持ちで過ごしていた。

ちなみに僕の南米訪問の最大の目的は「南極」だ。南極に行くためにこの旅を始めたと言ってもいいくらいのものだ。南米大陸最初の街、ブエノス・アイレス(の空港周辺)で消耗している場合ではない。できることならここから一足飛びに南極への前線基地である南米最南端の港町、ウシュアイアに飛んでしまいたかった。今持っているプエルト・イグアス行きのチケットを破棄して飛んでしまおうか。

けれど人から旅について尋ねられた時に、アルゼンチンにまで行って「イグアスの滝」を見ていないと返答するのも何だか味気ないような気がしたので、まぁとりあえず寄っておこう、寄っておかなければならないのだろうな、そんな気持ちで「プエルト・イグアス」を訪れることにしたというわけである。

結果的にこの街を訪れたことは僕にプラスの効果をもたらしてくれたようだ。

シエスタ

イグアス大瀑布。僕はアルゼンチン側の「プエルトイグアス国立公園」から堪能した。ブラジルはビザを取得するのが面倒だったので行っていない(そして後悔している)

プエルト・イグアス空港からは乗合バスを利用した。それが安全であるようだったし、他の旅行者もみんなそうしていたからだ。金額もタクシー利用に比べてリーズナブルなようである。

世界中から観光客が訪れるのだろう、ここでは先のエセイサ国際空港よりはるかに英語が通じた。ただ、世界中から観光客が訪れる割にはこぢんまりとしたシンプルな雰囲気の空港だった。

プエルト・イグアスの街もまた、その空港に負けず劣らずシンプルで、こぢんまりとした街だった。

バスを降りて、僕の視界に一番最初に飛び込んできたのは、朽ち果てた宿泊施設と、今にも崩れ落ちそうな、営業しているのかどうかさえ少し怪しいようなコインランドリーだった。

その隣にコンクリートが敷き詰められた、50メートルプールくらいの大きさの(それくらいの大きさに僕には見えた)だだっ広い空間がある。それがバスターミナルであると気がつくまでには多少の時間が必要だった。なにせバスがほとんど発着していないのだ。

車道の舗装されていない部分は赤茶けた大地が顔を覗かせていて、高い建物がないせいか、空がとても高い。

その高い空から太陽の日差しが容赦なく照りつけている。2月のアルゼンチン、プエルト・イグアスはまさに夏真っ盛りだ。そんな午後の昼下がり、バスが停車したダウンタウンのメインストリートには人影がまばらで、街は死んだように静かだった。

その静けさが、僕が観光地に対して抱いているイメージとはあまりにかけ離れすぎていたので、ここが僕が指定した目的地であるのかどうかということを先ほど降りたばかりのバスの車掌とその運転手に、何度も確認しなければならなかったほどだ。

 

その時間帯が、いわゆる「シエスタ」にあたるものだったということに気づくのは、それからしばらく後のことである。そう、ここは南米アルゼンチンなのだ。

これが街の目抜き通り、メインストリートである。シエスタの時間帯、出歩いているのは観光客だけ。街はしんと静まり返っていた。

シエスタの習慣で有名なのはスペインだけれど、ここアルゼンチンにも同様の習慣が存在する。

概ね昼の1時くらいから夕方くらいまで、街中の商店という商店は全て営業を停止する。スーパーマーケットなどは営業していることもあるけれど、そんなケースは比較的少ない。古くはスペイン植民地時代から続いているという習慣だ、そう簡単に変えられるものでもないだろう。この時間帯のアルゼンチン人は極めて厳格に、労働することを拒否する。

日中しっかり休む分、彼らは夜遅くまで働く。そもそもシエスタの時間帯は日差しが強く、活動には適さない。昼食後の休憩や午睡は心身の健康にすこぶるいいということも、よく知られた話ではある。

シエスタのように午後、夕方までの時間を休息に当てる文化を有する国が世界中に数多く存在することが、その有効性を証明しているようにも思われる。日本にシエスタの習慣があったなら、僕も日本に帰りたくなるのかもしれない。というのは冗談だけれど、最近は温暖化の影響で随分暑くなって来たことだし、一度前向きに検討してみて欲しいものだ。

違いを受け入れてゆくこと

イグアスの滝へ向かうバスに乗車するために、ホテルにバンが迎えにきてくれることになっていたのだけれど、約束の朝7時になっても一向に送迎車が到着する気配はなかった。

外国の交通機関はあてにならない、そういうものだと頭ではわかっていても、いざ自分がそのシチュエーションに置かれてみると途端に気が気ではなくなってくる。

旅が進むにつれ、外国では、とりわけ南米では、バスに関してはスケジュールされた時間から1時間、下手をすれば2時間以上遅れることすらあり得るということがわかってきた。そしてそのことに対して、特にクレームを言ったりする人もいない。5分〜10分程度の遅延で鉄道駅係員に詰め寄る日本人を見たら、この国の人はどんなふうに思うんだろうか?

結局40分遅れでバンが迎えにきたが、その40分が結構長い時間であるように感じられた。

イグアスの滝は想像を上回るスケールで、僕の中の「滝」の概念がすっかり変わってしまうほどだった。

まだまだ南米を一人で移動することに不安があったので、イグアスの滝に関してはツアーに参加してイグアス国立公園に向かうことにした。英語対応可のツアーであったのだけれど、40人程度の参加者の中で英語によるガイダンスを必要としていたのは、アジア人である僕だけだった。

ガイドは英語が堪能な僕と同年代くらいのアルゼンチン人で、テキパキとした物言いや立ち振る舞いが好印象のいかにも仕事ができそうな女性だった。

他のツアー参加者は全員スペイン語話者なので、まずはスペイン語で彼女が僕以外の全ての参加者にこれからの予定や注意事項などを説明した後、僕にだけ英語で再度同じことを説明し直すという手間を強いることになる。

その間、他のツアー参加者は完全に手持ち無沙汰になる。

そういうシチュエーションにある種の申し訳なさや居心地の悪さを感じるのが僕の、あるいは日本人の習性であるように思う。けれど陽気な南米のアミーゴたちはそういうことを全然気にしないようである。

僕を珍しがるわけでもなく、過剰にお節介をやくわけでもなく、かといって全く無関心であるわけでもなく(当然無視するわけでもなく)極めて心地いい距離感とタイミングでいろんな人が一人である僕に声をかけてくれた。合言葉は「Enjoy?(楽しんでる?)」だ。そこから会話が始まる。

彼らの英語はお世辞にもうまいとは言い難かったけれど、文法的に正確であるかどうかとかいうことを、彼らはあまり気にしないようだ。

発音だって、スペイン語は日本人にとって比較的発音しやすいと言われていることからもわかるように、そんなにいいとは言えない。でもそんなことも気にしない。

とにかく話す。コミュニケーションそのものを楽しもうとする(そこは台湾人の英語に対する姿勢にどこか似ているような気もする)。

このボート、この後滝壺に突っ込んでいく。当然ずぶ濡れだ。ツアー客のテンションが最高潮に達する瞬間だ。僕もずぶ濡れになった。そして着替えを持って行っていなかった。

いろんなことが日本と異なる南米。

言葉も、文化も、生活習慣も、時間に対する感覚も、英語に対する姿勢も、何もかもが日本と異なるこの場所で、そんな違いに戸惑いながらも、少しずつそれらを受け入れていく。

南米に限らず海外では、そうする以外に生きていく術はない。もちろん僕は旅人であるので、「旅を終えてすぐさま帰国する」というオプションもあるのだけれど、当然のことながらまだまだ旅を終えたくはない。

ならばこの違いを徹底的にエンジョイしよう(犯罪とかに巻き込まれるのは嫌だけど)。逃げるでもなく、過剰に適応するでもなく。誰に迷惑をかけるわけでもない。なにせ自分は今一人で旅を続けているのだ。

僕が今をエンジョイすることによって傷ついたり損なわれたりする人は、ここ南米には多分いない。僕が今をエンジョイしているということを理由に僕を非難したり、僕に何かを損なわれたと不平不満を述べる人もいない。そして驚くべきことに、日本にいた時の僕にとってそういう状況はなかなか得難いものだったのだ。

家庭も職場もコミュニティも概ねそういうものだった。ずっとそういう環境で生きてきた。日本だったからそうだったのか、あるいは僕を取り巻く環境が特殊であったのか、それが良いのか悪いのか、未だに答えは出ないのだけれど(というかあまり物事に軽々しく善悪の判断を持ち込むことには経験上、僕は自制的なのだ)どちらにしてもそういうのが息苦しくて生き苦しいものであったことだけは確かである。

それは価値観や習慣の些細な違いに敏感である僕たちの文化の側面を照らし出している。

旅先で経験する開放感のようなもの。それが今ある問題を解決したり、息苦しい日常を直接変えたりするようなことは決してない。当たり前のことだ。けれどこの街の高い空と照りつける太陽の下、午後の気だるい昼下がりとシエスタの静けさの中で、すべての不快な思い出や感情は乾いた空と赤い大地に吸い込まれていってしまうようにあの時の僕には思われた。

ブラジル・パラグアイの国境にほど近いあの街にはそういう効用があったと思う。旅を終えた今振り返ってみても、僕にとってそれはなかなか素敵な経験だったのだ。

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    osugi

    2016年11月から約400日間、世界を旅してまわっていました。 現在は旅を終えて、フィリピン・セブ島の旅人たちが集まる英会話スクール「Cross x Road」で、素晴らしい仲間に囲まれながら、日本人の生徒さん向けに英文法の授業をしつつ、旅に関するあれこれを徒然なるままに書く、という素敵な時間を過ごしています。