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本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記【第16話】(前回)はこちらから。
6−1 ボリビア ウユニ塩湖
夢
夢は寝て観るものだ。にも関わらず、寝ても覚めても僕は夢をみずにはいられない。小さい頃からずっとそうだった。休みの日、何もすることがない午後の昼下がり、空白の時間。そういう時、僕はいつも畳の上に寝転がって考えるともなく何かを考える。それは決まって自分が会ったことのない人のことや行ったことのない場所のことで、僕の想像力は空想の中の人物や想像上の場所を奔放に、いつ果てるともなく駆け巡っていた。
お昼ご飯を食べて、少しゴロンと横になって少しの間物思いに耽っているともう「晩ごはんよ」という祖母の声が聞こえる。そういうこともしばしばあった。まぁ要するに変わった子だったというわけだ。
けれど長じるにつれて、そういう習慣は当然だけれども徐々に薄れてゆく。中学以降は部活やバイトで休日を終日自宅で過ごすことが少なくなっていったし、そもそも「夢をみる」という行為そのものが自分の中で何か気恥ずかしいものになっていった。
いい大人が夢を語る。そういうことは一種の恥ずべき行為であるという風に自分のマインドがセットされたのはいつの頃だったのだろうか。気がつけば、夢を語ることは、僕にとっては「現実逃避」とほぼ同義語になっていた。そのような幼児的現実逃避を手放した代わりに得られるものを「成熟」とか「社会性」と呼ぶのだ。そんな風に思うようになっていった。
だから、世の中の人が「夢」について語り、その夢をベースに職業を選択し、パートナーを選び、人生を構築していく様子を見るとなんだかおもはゆい(※)心持ちがしたものだ。夢は僕たちをそれまで自分が思いもしなかったところに連れていってくれる。子供の頃に僕がしていたように。
一方で、そういう現実離れした思考に基づいて何らかの大きな行動を起こすことが何かとてつもなく大胆で、向こう見ずで、しばしば自暴自棄でもあるような、そんな風にも思えてしまう。そんな風に考えるようになったのはいつの頃からだろう。
(※)「おもはゆい」=きまりが悪い・恥ずかしい
両親の影響も大きかったと思う。当人たちは極めて現実的であると本人たちが認識しているように極めて現実的な人たちだったので(これはもちろん皮肉で、実際は自分のことをリアリストだと思っている人ほど現実を見ていなかったりするものだ)、基本的に僕が自分の夢を語ったり、将来の希望や「やりたいこと」などを口にすることそのものを嫌がった。
基本的に理屈っぽい人間である僕はその夢がいかに自分にとって大切なものであるのかを理解してもらおうとあらゆるロジック(と呼べるほどの代物ではなかったが)を総動員して両親の同意と応援を乞うたものだったけれど、そういうものによほどうんざりしていたのだろう、僕が社会に出てからは「あぁ、また訳のわからんこと言いだしたわ」という反応が関の山になっていった。
というよりも僕たち家族に切迫してくる現実があまりにも深刻なせいで、そういう話に耳を傾ける余裕がなくなっていたのかもしれない。いわゆる「夢」を語るのは構わない。けれどそれは現実に基づいた、家族成員を不快にさせたりすることのない当たり障りのないものでなければならない。もっとやりがいのある職場に転職したいねん。福利厚生がしっかりしていないと将来不安やからね。スキルアップのために、社会復帰施設の管理者をやってみたいな。そういう類の夢だけが、語ることを許される。
けれどどうだろう。そういうのって本当に「夢」なんだろうか?
足元に広がる星空
ウユニ塩湖のことを書こうと思って随分前置きが長くなってしまった。「ウユニ塩湖」に行くことは、長い間僕の夢の一つだった。ただそれがいつから僕の夢だったのかを言うことはできない。1年前かもしれないし、10年前からかもしれないしあるいはそれ以上前からかもしれない。何れにしてもそれはそれなりに長い間僕の夢でありつづけ、かつ上述の理由から、軽々しく口にすることをはばかられる「夢」だった。
自分のことなのに。そう言って笑う人もいるかもしれない。けれど夢を見ることを長い間抑圧してきた僕にそれがいつから夢だったのかを言えるはずはない。それがいつから見られた夢で、いつ見られなくなった夢なのかを正確に言うことができる夢とはすなわち寝てみる夢のこと、つまり叶うことのなかった夢のことだ。
抑圧したものは必ず「症状」として回帰する、と言うのがフロイトがいう「無意識」の骨法である。もちろんそのせいで僕が40歳の時にうつ病になったのだ、というような話をするつもりはない。簡単に言語化できないからこそ「無意識」であり「トラウマ」なのだ。それが言語化できるということはその症状が寛解(※)に向かってゆくことを意味する。簡単にできれば誰も苦労はしない。
(※)かんかい=よくなること
最終的に、僕の夢は最高の形で叶った。前回も書いた通り、「新月のウユニ塩湖」は僕が必ず見てみたい世界の絶景の一つで、かつ様々な気象条件が揃わないと決して見ることのできない風景なのだが、晴れ、無風、新月といった全ての条件が整ったあの夜、僕の足元の湖面には満天の星空が映し出されていた。「足元に広がる星空」。そういうものがこの世にはリアルに存在するのだ。それこそ夢のような話ではないか。
別れと出会い
世界一周に行きたい。そう父に初めて告げた時のことは今もよく覚えている。初めての時はスルーされた。2回目は鼻で笑われた。3度目に怒鳴り始めた時に「もうこの人とは話ができない」と思った。そしてそれ以降実際に言葉を交わしたことはない。家族には何も告げず、僕は旅に出た。世界一周に行ってきます。少し頭を冷やしてきます。そう書いて実家の住所に宛てたハガキを成田空港の第2ターミナルの郵便ポストに投函した。セブに向かう飛行機が離陸する2時間前だった。
別に父のことを悪く言うつもりはない。なにせ僕は度し難い人間なのだ。あるいは父のそれが一般的な日本人の反応であろうとも思う。世界一周に行くと言った僕を笑ったのは父一人ではなかった。それまで僕が「友達」だと思っていた人たちの多くと音信不通になった。それらの人たちは僕の何と、どの部分と結びついていたんだろう。考えても仕方のないことなのだけれど今でも考えずにはいられない。
何はともあれ僕は無事、ウユニ塩湖にたどり着いた。空港のターミナルを出てすぐに2人の日本人女性とタクシーを相乗りすることになった。どちらも落ち着いた雰囲気の聡明な女性だった。この時期のウユニ塩湖に跋扈しているような、朝から晩までノイジーなツーリストにはない穏やかさを備えた女性である。高い教育と豊かな教養を感じさせる二人との出会いから始まったウユニ塩湖での滞在は、最高のものになるべくしてなったのだということができる。
別の機会に出会った女性とは出身地が同じで、彼女がウユニを去る夜に、夜中に出発する汽車を待ちながら何時間も話しをした。大阪にいても同じ出身地の人に会うことは少ない。それくらいマイナーな街で生まれた僕たちが地球の裏側で出会うという偶然に驚かされる。旅のご縁というのは不思議なもので、会える人とは何度でも出会うのだが会えない人には本当に会えない。自分がどれだけ近しい仲だと思っている人にも、会えないものは会えないのだ。
どこまでも続くウユニ塩湖の湖面は常に頭上に広がる空を映し続けた。空に浮かぶ雲と、夜空を彩る星を、澄んだ空気とともにどこまでも美しく映し続けていた。そこにはなんの留保もなく、いかなる誇張もなかった。その留保のない鏡張りの湖面は本当に美しかったのだが、その景色の一部として含まれている僕の暗い心の中までをも映し出しているような気がして少し苦しくもあった。
できることならこの瞬間だけでもいい、子供の頃のような心で美しくありたい。そう願わずにはいられなかった。僕の心で、果てしなく続くこの美しい景色を汚してしまいたくないと思ってしまったのだ。随分馬鹿らしいことだけれど。
成熟
旅を終えて、人には「夢を語る権利」のようなものがあると言うことをつくづく実感している。
先日、今お世話になっているセブの語学学校でインターンの男性が「テーブルトーク」を企画してくれた(こちら)。日がくれた後のバスケットコートで、ロウソクの火を車座になって囲みながら、自分が死ぬまでにしたいことを10個言う、というものだ。旅に出る前の僕が一番嫌っていた類のイベントである。
けれどあの時の自分に問うてみたい。あの場にいた全ての人たちのキラキラした目を見てもなお、あなたは夢を見ること・語ること」は現実逃避であり、非生産的な営みであると言うことができるのか?と。
今週も、たくさんの卒業生が「夢」を語って旅立っていった。
それを心から素直に応援できている自分がいた。
そのことに気づいた時に、「自分はもう大丈夫なのかもしれない」とおもった。気の遠くなるような長い迂回を経てもう一度、僕は子供の時の自由奔放な想像力をもう一度手に入れることができたのだ。
一方で、40数年の経験を経て得られた、自分自身の想像力の貧しさと限界を気遣うことができる程度の(ささやかな程度の)「知性」がある。
大切なことは、一つの価値や理想の中にすっきりと収まって泰然自若(※)としていることではない。それよりもむしろ、常に相反する二つの価値の間に引き裂かれてあること。時に後ろを振り返り、逡巡しながらいまを生きること。悩んだり傷ついたりしながらそれでも一瞬一瞬の生を十全なものにしようと手持ちのリソースを最大限に利用して一歩一歩前に進んでいこうとすること。そのようなあり方が人間の本性でありきっと本当の意味での「成熟」なのだろう。そしてそういう困難な道のりを歩いてゆくために必要なリソースの一つは、やはり「夢」であるべきなのだ。
(※)たいぜんじじゃく=落ち着いていてどんなことにも動じないさま。
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