【第29話】本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記

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 東京・大阪・富士吉田市 日本

ユニークな国

スクランブル交差点。Photo by Yasshi

これを書いている今、日本を出発してすでに1年半が経過している。3ヶ月に一度は日本に行くことになっているのだけれど、最近ではそれが実は少々億劫だったりもしている。そして戻るたびに痛感することになる。日本は旅人として訪れるにはとても心地のいい国なのだけれど、住むには居心地の悪い場所だと。

 

2017年6月、ご案内の通り僕は世界一周を中断して帰国した。成田に到着したその日、渋谷の忠犬ハチ公前で留学時代の仲間と待ち合わせをした。なぜ忠犬ハチ公の前で待ち合わせたのかというと、僕が忠犬ハチ公の前で待ち合わせをしてみたかったからである。何を隠そう僕は田舎者なのだ。

 

渋谷といえば、旅中に(確かアルゼンチンのエル・カラファテで)出会った韓国人から「渋谷のスクランブル交差点に行ってみたい」という話を聞いた。その時はただ「へぇ」とおもっただけだったのだけれど、同じことをその後複数の外国人から聞くに及んでその理由を尋ねずにはいられなくなった。なんでもあの交差点をあれだけの数の日本人が誰にもぶつからずに渡りきってしまうのをみてみたいんだそうである。なるほど。

 

夕暮れ時のスクランブル交差点をスーツ姿のサラリーマン、俯き加減の就活生、老若男女に至るまで様々な人が虚ろな目をして横断している。一人一人はランダムに交差点を横断しているのだけれど、全体としてはそれはなんらかの秩序らしきものを有するマスである。人々は虚ろな目で他人にぶつからないことを主な目的として歩いているかのように、その交差点の中でひしめき合うことになる。それが信号の明滅を合図にして周期的に絶える事なく生み出され続けてゆく。

 

確かに。と僕は思った。これは世界ではみることのできない光景だろうと。事実ニューヨークのマンハッタンでも、スペイン・バルセロナでも、中国の北京でも、こんな光景にお目にかかることはできない。

 

海外生活が長くなってくると、いろんなことが世界の基準から少しずつずれていて、そのずれの集積がやがて決定的な違いに結実してしまったユニークな国、それが日本であると思うようになってくる。日本に戻るたびに、僕の中のその違和感は確実に大きくなっていって、それに応じて自分が「よそ者」であるという感覚が増してゆく。そんなマインドセットが身体にまで影響を及ぼしてしまっているのだろうか、日本に帰る度に僕はお腹を壊してしまう。日本の食べ物が合わない体質になってきているのだ。

 

 

富士吉田市

富士吉田市の通称「忠霊塔」と呼ばれる場所。外国人観光客の姿も多かった。多分有名な場所なのだ。

日本に帰ってどうしても訪れたかったのが、山梨県、富士山の麓に位置する「富士吉田市」だった。この街で機織りの仕事をしているという女の子に留学していた語学学校で出会った。40歳を超えた頃から急速に生きづらさを感じていた僕は、とりあえず「大阪」という都市に生きることが息苦しくて、当時流行っていた地方移住に強い関心を持っていた。件の女の子は東京の大学を出てその人口約5万人のこじんまりとした街に移住し、そこでの親密な人間関係に囲まれながら日々機織りに励んでいるということだった。

 

その彼女の友人に「地域おこし協力隊」という地方移住を促進する事業を生業にしている知人がいるという。旅を終えれば日本に帰り、日常に復することが当然だと考えていた僕は、帰国後の移住先について真剣に考えていた。とりあえず大阪には帰りたくない。そんな僕にとって彼女の存在は実に渡りに船だったというわけだ。その彼女の友人を紹介してもらうこともまた、今回の帰国の大きな目的の一つだった。

 

滞在中は富士吉田の古民家をほぼDIYでリノベーションしたというゲストハウスに宿泊させてもらい、そこのスタッフであるという面白い経歴を持つ僕と同姓の男性(僕の姓は少し珍しいのだ)を紹介してもらった。彼女の友人・知人が富士五湖のほとりでキャンプをしているというのでそこに連れて行ってもらってカヌーを楽しんだりした。

 

「ロン○ープラネット」の表紙になりそうな富士山の美しい写真が撮れる場所や(実際にそこで撮られた写真が表紙に使われたこともあるそうだ)、富士山の麓にある青々とした芝生が美しい公園に連れて行ってもらったりして数日を過ごした。この街には都市とは異なり「匿名性」のようなものはなかったか、あっても極めて希薄だった。そして日本には「都会」と「田舎」の間に厳然たる違いが横たわっているなと思った。スクランブル交差点と、富士山麓の青々とした芝生が同じ国に属しているのである。

 

富士吉田市の中心の商店街。ゲストハウスの前から。

富士吉田市での滞在は僕にとって概ね心地の良いものだったけれど、地方ならではの難しさも同時に垣間見えた気がした。僕が生まれ育った故郷は大阪の郊外で、僕がそこを幼馴染みとともに走り回っていた1970年代から80年代を振り返ってみればその光景をうっすらと覆う昭和的なエートスの残滓を思い出すことができる。現在開発が進んで一台商業エリアになっている大阪「あべの」まで電車で30分のその街は、昔ながらの「地の人」と、僕の両親のような地方からの移住者が混在している街で、他の地域と同様開発と停滞の間で揺れていた。

 

時代の波が、僕の故郷を(将来的にゴーストタウン化させていくことになる)ニュータウンのような、郊外のベッドタウン的な場所に変えていった。ただし計画的かつ大規模に整備されたニュータウンと違い、地方からの移住者と地元の人が混在するその街で、両者の間の見えない壁は決してゼロになることはない。

 

そういう場所で育った僕には、富士吉田市の様々な面が見えてくるような気がした。もちろんそれが現にあの富士山に抱かれるようにて佇む美しい街に存在すると言いたわけではない。そんなものは数日程度の滞在なんかでわかりはしない。ただそこは、僕が自分の故郷を思い出す時に感じるとてもノスタルジックななにものかと、激しく胸を締め付けることになる何ものかを同時に僕の心に想起させるトリガーとなるには十分な場所であったということだ。

 

 

Not everybody still has a place.

大阪・新世界。このすぐ近くに西成区がある。

富士吉田市を後にして僕が向かったのが故郷の大阪である。といっても僕にはもう帰る家はなく、帰るべき実家もない。だからこの街を故郷と呼んでいいのかもわからない。「みんなが故郷を持っているわけではない」。Not everybody still has a place from where they’ve come(※1)。そうして僕は、ダイベックの小説の主人公がそうするように大阪の街を歩き回った。もちろん隣には故郷というものを説明するべき女の子もいなかったし、英雄たちの像なんてない。あるのは据えた匂いのする場末の居酒屋とホームレスと初夏の夕焼けである。なにせここはシカゴではなくて、西成なのだ。

 

僕が大阪に来たのは自分のバックパックの荷物を整理するためだった。僕の全財産は65リットルのノースフェイスのバックパックの中の全てだった。それ以外のもの、家電製品や音楽CDやあんなにたくさんあった書籍は全て人に譲るか売るか捨てるかした。それでも残ったいくばくかの品々−マックのデスクトップやちょっとした衣類、靴−は大阪市内の別の場所にレンタルスペースを借りて預けてある。その中から今後の旅で必要になりそうなものを取り出し、バックパックの中から不要なものを取り出してトランクルームに収納する。

 

0.5畳つまり4分の1坪に収められたそれらの取るに足らない荷物が収納されている四角い無機質な空間を見ていると、改めて自分は頼る場所のない根無し草のような人間なのだということを痛感せずにはいられなかった。仕事をして稼いだお金で日々の家計をやりくりし、余ったお金で購入したそれらの商品に囲まれて生きていたあの日々は幻想だったんだろうかとも思った。物質的な豊かさが生活の質を向上させるという信憑がかすかに残る1970年代生まれの僕が本当に追いかけていたものはなんだったんだろうかと思わずにはいられなかった。

 

大阪「あべのハルカス」。2018年5月現在で日本一高いビルである。

28歳の秋、僕は家を出た。計画的に家を出たのではなく発作的・突発的に家を出た。その日は僕が当時交際していた彼女を家に招いて、彼女が持ってきたCDを聴いたり、二人でとりとめのないおしゃべりをしたりしていた。母が突然ノックもせずに僕の部屋に入ってきて僕のことを口汚く罵ったのはそんな時だった。

母はかなりお酒に飲まれていて呂律は回っていなかった。アンタはこの部屋に連れ込まれた何人めのオンナなんだろうか!こいつ(僕のこと)はどうしようもないバカ息子でオンナの尻ばかり追いかけているゲスだ、というようなことを彼女に向かって言った。あまりに突然の出来事にあっけにとられている彼女を尻目に、母はなおも早口でまくし立てた。

 

その数日前友人が遊びにきていた際にもやはり同じくらいの時間帯(それは大体夜の8時くらいだった)に突然部屋に入ってきて落語の話をし始めたことがあった。自分は落語家の一門に弟子入りした。だからお前は私のことを〇〇亭〇〇と呼びなさい。そういうことを早口でまくし立てた。なんやあれ、おまえのオカン、オモロイな。けれど母の強烈なアルコール臭に気づいていた僕はとてもじゃないけれどその状況を笑い飛ばす事はできなかった。ごめん。今日はもう帰ってくれるか。いやいや、オモロイからもうちょっとおらせてや。俺ら全然イケるで。

 

そういう些細なことが積み重なっていたところだったので、僕は感情の抑制が効かなくなってしまった。出て行け!そう言って母を部屋の外に押し出した。少ししてから母が再び部屋に入ってきた時、その右手には包丁が握り締められていた。「殺してやる!このアバズレめ!」(僕に向かって言ったのか、彼女に向かって言ったのかは定かではない)と叫びながらまっすぐに僕の方に向かってきた。

 

その時母に対して暴力をふるってしまった事は今も強く後悔している。身の危険を感じたとは言え、もう少し冷静に対処する方法はあったはずだし、決して力だけが全てじゃなかったはずだとも今となっては思う。いずれにしても、あの時の自分は最低だった。

 

僕と母は距離が近すぎたのかも知れない。お互いにお互いを一人の人間として尊重するべきタイミングをどこかで逸していたのかも知れない。この日を境に僕は家を出た。騒ぎを聞いた近所の人が警察を呼んでくれていて、駆けつけた警察官との話が一通り終わった後、僕は最低限の荷物だけをリュックサックに詰め込んで家を出た。

すぐにはアパートが見つからなくて1ヶ月間車で寝泊まりした。たまに友人の家に泊めてもらったりもした。当時僕は精神科の病院に勤務していたのだけれど、あの時は大嫌いだった当直の日が本当に待ち遠しかった。ベッドに足を伸ばして寝ることができるしシャワーも無料で、しかも手当までつくのだ。

 

グローバルホームレス

大阪城。大阪城公園に隣接する「大阪歴史博物館」から。

「世界を長期で旅をしています」というと聞こえはいい。いや、もしかしたらそんなに良くないのかもしれない。いずれにせよ実際旅をしていた時の僕は28歳のあの時と同じ根無し草のホームレスである。世界を股にかけるグローバルホームレスだ。あの時は母から逃げて、12年後の40歳の時に自分自身から逃げ出した。そして今ではもう、久しぶりに故郷に帰った僕に温かい布団や食事を提供してくれる友人もいなければ、僕を温かく迎え入れてくれる家族もいない。

 

大阪城にほど近い古ぼけた低層のビルの一角、0.5畳のトランクルームだけがこの地球上で唯一僕にあてがわれてた空間だ。その0.5畳の宇宙の前で僕の頭の中は激しく回転している。日本に「帰る」?日本のどこに、誰のところへ「帰る」というんだ?

 

ここは僕の故郷ではない。だから僕はここに帰ることができないし、帰る必要がない。理由は上述の通りだ。Not everybody still has a place from where they’ve come.それは自分の固定観念が決定的に崩れていった瞬間だった。帰る場所がないのではない。帰る必要がそもそもないのだ。

 

そしてこの時の僕はもうすでに世界はとてつもなく広くて大きくて、僕の想像もつかないような人たちで満ち溢れているということを知っている。なにせあれだけ時間をかけているにもかかわらず、僕はまだ世界の半分も回ることができていないのだ。まだ見ぬ世界が広がっている。これだけ広い世界には、きっと僕のための場所があって、僕を暖かく迎えてくれる人がいるはずだ。こんな僕でも。だからくよくよする必要も無いじゃないか。

 

自分はもう日本では生活しないのかもしれない。初めてそんな予感に包まれたのが南米パタゴニアを旅していた2月、アルゼンチンの夏だった。そのことは以前少しだけ書いたことがある。そうして僕は日本が夏になろうとする6月末、その予感をほとんど確信に近い何かに変えてニューヨークに飛び立つことになった。新しい旅の始まりにふさわしい、清々しい気持ちだった。

(※1)Stuart Dybek  “Hometown”  (筆者日本語訳)

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osugi

2016年11月から約400日間、世界を旅してまわっていました。 現在は旅を終えて、フィリピン・セブ島の旅人たちが集まる英会話スクール「Cross x Road」で、素晴らしい仲間に囲まれながら、日本人の生徒さん向けに英文法の授業をしつつ、旅に関するあれこれを徒然なるままに書く、という素敵な時間を過ごしています。