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本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記【第29話】(前回)はこちらから。
ニューヨーク州・アメリカ合衆国
ブルックリン
アメリカ合衆国、ニューヨーク州の南の端から大西洋上を東に向かって横一文字に伸びる島がある。ロングアイランド。2016年6月末、ハドソン川を挟んでマンハッタンの東の対岸に位置するそのロングアイランドの西の端の街に、僕は高校時代のクラスメイトを訪ねた。一時帰国後の世界一周再スタートの地はその彼が住むニューヨーク州ブルックリン区である。
そのクラスメイトはジュンくんと言って、ニューヨークで映像作家として活躍する傍ら、マンハッタンの大学で教鞭をとるというインテリ・クリエイターである。と言っても彼との直接の交流は長らくの間途絶えていて、僕たちのそれはもっぱらSNS上のやりとりが中心だった。南米周遊中、僕が一人で辛い思いをしているときにいつもメッセージを送って励ましてくれたのも彼だったし、アルゼンチンで流しのタクシーに乗って危険な目にあった時に叱ってくれたのもまた彼だった。
上海から10時間以上のフライトを経てジョン・F・ケネディ空港に降り立ったその日、ジュンくんは仕事で日本に帰っていた。僕はブルックリンの彼のアパートメントにしばらく滞在させてもらう予定で渡米したのだが、あいにくにも入れ違いになってしまったというわけだ。
彼は隣人に事情を説明して鍵を預けてくれていたので、ニューヨークに到着した僕はまず空港からブルックリンまで移動して彼のアパートメントに隣人を訪問し、鍵を受け取らなければならなかった。事前にジュンくんから聞いていた部屋の住所をタクシーの運転手に告げてアパートメントに向かう。タクシーはハイウェイを降りてブルックリンの目抜き通りを過ぎ、富裕層が居住する低層の住宅街、煉瓦造りのアパートメントが立ち並ぶ静かな街並みの中を進んでゆく。
6階建ての建物の最上階に位置している彼の部屋は、ちょっとしたインテリア雑誌やファッション誌に掲載されていてもおかしくない、シンプルで瀟洒な部屋だった。漆喰の壁、年季が入って鈍く光るフローリングの床。窓の外にはニューヨークの摩天楼が霞んで見える。こじんまりとしたキッチンと清潔なバスを挟んだ両側に一つずつ、8畳〜10畳程度の広さの部屋があって、一つは寝室、一つは彼のオフィス兼趣味の部屋として使われている。
そのオフィス兼趣味の部屋の窓の下には三人がけのグレーのリネンのソファが置かれていて、机の上にはマッキントッシュのデスクトップ。その横に大きなディスプレイが二つ並んでいる。壁一面を覆う本棚にはたくさんの書籍とたくさんのレコードが並べられている。入り口を背にして窓に向かい、その本棚と直角になるように設えられた幅2mくらいのカウンターの上には大きなターンテーブルやミキサーがおかれていた。世界中のクリエイターが憧れる街ブルックリンの一角、まさに彼のイメージにぴったりの空間がそこにはあった。
Jun Oshima
ジュンくんがニューヨークに帰ってくるまでの間、僕はジュンくんのアパートメントで一人で生活することになった。午前中の涼しい時間帯にランドリーまで行って洗濯物を済ませ、ついでに近くのスーパーマーケットで買い物をして帰る。ニューヨークの物価は絶望的に高いけれど、自炊すればそれなりに食費を抑えて生活することができる。最上階に位置する彼の部屋は日が高くなってくると直射日光を浴びて少し過ごしにくくなったので、午後からは地下鉄に乗ってよく出かけた。6月のニューヨークはすでに初夏の陽気だったけれど空気は乾燥していて過ごしやすく、木漏れ日の中ブルックリンのレンガ造りのアパートメントが立ち並ぶ並木道を歩いて地下鉄駅まで歩くのはとても気持ちがよかった。
ジュンくんのアパートメントには結局2週間ほど滞在させてもらった。不在にしている間、面倒見のいいジュンくんは僕にブルックリン、それからマンハッタンのおすすめスポットをコンスタントにメッセンジャーで紹介してくれた。僕は彼がお勧めしてくれるスポットをだいたいアドバイス通りに訪れた。美術館、ダイナー、週末のフードマーケット。そういうところに行くたびに、僕はその都度自分がいまニューヨークで生活している、ということを実感した。イースト川にかかるブルックリン橋を渡ってマンハッタンに向かう。左手には小さく自由の女神が見える。6月のマンハッタンの空は白く靄がかかったような青で、それを切り取るスカイスクレイパーは世界中のどの都市のそれよりも堂々としている。ここが世界の中心だと言わんばかりのその威風堂々たる摩天楼を車窓越しに眺めながら、僕はだいたい毎日地下鉄に乗ってマンハッタン橋を渡った。
20数年ぶりに再会したジュンくんは相応のオーラをまとっていた。お土産に持っていった「山崎12年」のシングルモルトウイスキーをオンザロックで飲みながら、彼のアパートで夜遅くまでお互いの四半世紀の話をした。ジュンくんは高校の時よく「いつかアメリカに行って音楽関係の仕事がしたい」と言っていた。その夢が叶ってすごいね。僕は言った。けれどジュンくんはそんな夢を語っていたことはもうすっかり忘れていたみたいだった。20年以上という月日の流れとは、つまりはそういうことなのだ。僕にももう語ることを忘れてしまった夢があるんだろうか。記憶の奥底にそっとしまわれた夢が、いつか現実のものとして現れる日がくるのだろうか。そんな夢を僕の代わりに覚えていてくれて、僕に向かって語ってくれるようなそんな仲間がいるのだろうか。
ニューヨークの滞在や観光そのものもとても面白かったのだけれど、それ以上に彼の仕事に同行させてもらうのが僕にとってはとても刺激的だった。彼がコマーシャルを手がけたという日本企業のクライエントとチャイナタウンで食事をしたり、彼のクルーと一緒に独立記念日の花火を撮影するため夕暮れのウィリアムズバーグにいったりした。「ここが友達の家なんだ」というブルックリンのアパートに住むのは、今や世界的なトランペッターの黒田卓也氏である。それから彼が教壇に立つマンハッタンの大学にも連れて行ってもらった。
彼と僕の大好きなジャズシンガー(というカテゴライズが適切なのかどうかはわからないけれど)である「Monday満ちる」さんと食事をさせてもらう機会を与えてもらった時は感動してちょっと泣きそうになってしまった。とんだサプライズである。なんでも彼が以前、マンデイさんのドキュメンタリーを撮影したことを機に知遇を得て、今でもたまに一緒にお仕事をすることがあるという。もちろん二人は大の仲良しである。
マンハッタンのこじんまりとしたマンションの一室で、マンデイさんとマンデイさんの知人たちと、窓の外に広がるセントラルパークとニューヨークの摩天楼を眺めながら、僕たちは食事をし、ワインを飲んだ。そこで交わされていたお喋りに僕はとてもじゃないけどついくことはできなかったのだけれど(なにせみんなものすごいスピードで英語を話すのだ)、優しいマンデイさんは英語で交わされるその会話の内容を時々日本語に通訳して、ポカンと口を開けている僕にシェアしてくれた。
マンデイさんは興が乗って来るとハミングし始め、程なくしてそれは歌に変わる。彼女は年に数回来日して大阪や横浜のモーション・ブルーだとか新宿のピット・インだとかでライブツアーを行う。僕は(高い)お金を払ってわざわざそういうところに出かけて行ってはマンデイさんのパフォーマンスを客席から楽しんでいたものだったけれど、そのマンデイさんがニューヨークで、僕のまさに目の前でBGMに合わせて上機嫌に歌っているわけである。そういうことが現実に起こり得るのだ。
ジュンくんとはつまりはそういう人物である。彼はもはや高校の同級生の「おおしまくん」ではなくて、まごう事なきJUN OSHIMAなのだ。昨日まで日本でドキュメンタリーを撮影していたかと思えば、ニューヨークに戻っていくつかの仕事をこなし、次はテキサスに飛ぶ。そういう人である。世界の最先端の街で活躍するアーティストである彼との邂逅は、いろんな意味で僕にとって素晴らしい経験になった。
(ジュンくんのホームページはこちらになります)
憧れの人
「憧れの人」には2種類あると思う。「この人のみたいになりたい」と思う人と「この人のようには決してなれない」と思う人である(今ひとつはそんなことを思いもしないただの憧れの人である)。これまで僕の中で両者の違いは曖昧でそのことを特段意識することはなかったのだけれど、ジュンくんに出会ってからというものその違いをとても強く感じるようになった。ジュンくんは間違いなく後者の人である。そして、今僕が生活するセブで、僕の周りにいる人たちもみんな「この人たちのようには決してなれないな」と思う人たちばかりである。
こういうことを言うと怒る人がいるかもしれないけれど、「この人みたいになりたい」というのはある種の幼児性の発露であると思う。自他の境目がいささか曖昧なのだ。目標とする人がいることは素晴らしいことだ。事実、そのようにして目標に設定した人物に少しでも近づけるように人は努力する。尊敬するサッカー選手のようになりたくて一生懸命練習する小学生は素敵だし、そのような努力を否定するつもりもない。
けれど成人した男性の口からそのような言葉が発せられるとなると事情が少し異なってくる。人はその人がすでにかなりの域に達しているサッカー選手であると自動的に推測するだろう。もしそうでなければただの「ちょっと変わった人」として鼻であしらわれるのがオチである。ピアノが弾けない人がピアニストになりたいですと言うようなものだ。そういう発言はある種の子供の特権である。
けれど、「自分は決してこの人の様にはなれない」という言明には対象に対するリスペクトと自分自身に対するある程度客観的な洞察とが含まれていると思う。そういうのは決して子供にはできない成熟した大人の振る舞いだ。そしてさらにこんな風にも思う。「私はこの人の様には決してなることができないからこそ、自分の存在はかけがえのないものなのだ」と。
自分はこの人とは違う。その人の様には決して振舞うことができないし、滑らかな弁舌や恵まれた容姿、芸術的センスも自分には決してありはしない。その人が持つ豊かな知性や教養を自分は一生かけても手に入れることはできない。つまり私はこの人の様には決してなることがない。だから逆説的だけど、自分は自分のままでいてもいいんだ。努力してその人になれるなら、その人と僕が異なる人間として存在している理由がない。自分は自分の手持ちのリソースで、自分にできる最大限のことをすればいい。そんな風に思う様になったその始まりがここニューヨーク、マンハッタンだった。
それまでの僕にとって、いわゆる「憧れの人」は常に自分との比較対象でしかなく、それは同時にその人が持つ豊かな才能やリソースが自分にはないか、あってもとても少ないという「劣等感」を引き起こす装置でもあった。そこから自然に引き起こされるマイナス思考は大体において自分を傷つけるものだったし、そこから逃れるために、その決して手に入りはしないであろう何かを求めて刻苦勉励に励むことになる訳である。それが100%無駄だったとは思わないけれど、結果的には随分な回り道だったということは認めざるを得ない。
フィリピン・セブ島から
僕は今たくさんの「この人の様には決してなれない」と思える人に囲まれて生活している。けれどそれは少しも自分の自尊感情を傷つけたりはしない。むしろその逆で、だからこそ自分にもまた自分だけのかけがえのない「何か」があるはずだと思える。そんな風に考えて生きている。それがいまだに見つからないところが僕の痛々しいところでもあるわけだけれど、それでもその様な尊敬に値する人たちに囲まれて暮らすのはやっぱりとっても心地がいい。
ニューヨークでの2週間のことを思い起こす時、僕の脳裏に浮かぶのはいつもブルックリンの赤レンガの街並みと、ジュン君と過ごした時間のことだ。そしてマンデイさんと飲んだワインや独立記念日の花火のことやマンハッタンのカッコいい大学のキャンパスのことを思い出す。彼にとってのそれらはただの日常の一コマに過ぎないのだろうけど、そこにほんの少しだけど寄り添うことができた僕が彼から受け取ったものは多分無限大である。
あのままニューヨークに行かずに世界一周を終えていたら、と僕は考える。彼からの贈り物がもたらしてくれたものを知ることなくここセブに戻ってきて、今僕の周りにいるたくさんの素晴らしい人たちとの比較のうちに、あの劣等感を見出しながら毎日を過ごすことになっていたのかもしれないと。恐ろしいことだ。だからジュンくんには今も本当に感謝しているのだけれど、ジュンくんは世界中を駆け回り、僕はフィリピンのセブ島にいて、あれからずいぶんご無沙汰してしまっているのでその感謝の気持ちを伝える機会がない。
そういうわけなので、お礼方々素敵な思い出とともに今こうしてここに記すというわけである。
どうもありがとう。
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