【最終話(後編)】本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記

cr_banner

本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記の概要はこちらからご確認お願いします。

本当のジブンに出会う旅|中年バックパッカーの孤独と絶望と希望の世界放浪記【最終話(前編)】(前回)はこちらから

  • 仲間と英語を勉強して旅の準備をしよう!
  • 仲間と英語を勉強して旅の準備をしよう!

カミーノ・デ・サンティアゴ

節約

巡礼路上の教会

僕はバックパッカーであったので、比較的節約に対する意識は高かっと思う。もちろん「生粋の」というにはいささか気ままに食べたいものを食べ飲みたいもの飲むバックパッカーではあったけれど、かといって取り立てて浪費していたわけでもない。だから生活費を出来る限り低く抑えることについてはさほど難しさは感じていなかった。けれど、カミーノにおいてはいささか事情が異なっていた。

 

巡礼を始めた時点で僕の手もとに残っていた現金は、日本円にして5万円程度だったと思う。サンティアゴ・デ・コンポステラまで35日でたどり着くことができるとして一日の予算は10ユーロ程度である。生活できないことはないけれど、かなり苦しいものであることに違いはなかった。

 

その事実をかなり切迫した事態として認識し始めたのが巡礼3日目、ナバラの町においてだった。ナバラはフランスとの国境に近い比較的大きな街で、僕はここでデビットカードを使って現金を出金しようとしたのだができなかったのだ。

 

当時、この時点で僕の銀行口座には結構潤沢な預金残高があった。旅を終えた後の生活費は別の口座に移してあったので、その比較的まとまった額の預貯金はそのまま旅の資金として費やすことができる。物価が安い国を選んで旅を続ければ、ゆうに1年以上は生活することができたはずだ。その「事実」が、つまり決してお金がないわけではないという事実が、僕の判断や現実認識を若干歪めて曇らせていた。

 

交換の場に供されることによって貨幣は始めてその意味を帯びる。1本1ユーロのフランスパンをレジに持っていく時に初めて、その1ユーロは1ユーロとしての価値を発揮することができるのであって、それまではただの金属や紙きれや、電磁パルスにすぎない。「交換を加速すること」。それが貨幣の本質的な役割だ。銀行の口座にとどまり続けている限り、そのお金は実になんの意味もない。

 

そんな当たり前のことを、僕はここカミーノでつくづく痛感することになった。豊かな預金残高は、先進国で何気なく日々を過ごしている限りにおいては「安心感」をあたえてくれるだろうし、貨幣それ自体がまた、貨幣を生み出す装置になりうる(そしてそのような信憑は、僕のような凡人にとっては夢のような話である)。けれど見知らぬ外国で、僕名義の預金残高それ自体は、僕に何ものをももたらしてはくれなかった。

 

僕がその口座から海外で現金を出金するために使用していたデビッドカードは、海外からの、具体的にはアメリカ合衆国からの執拗な不正アクセスに晒されていたために、当該銀行の判断で強制的に利用を停止されていたということを知ったのはずいぶんあとのことだった。具体的には7月31日から、つまり一ヶ月以上前から、利用できなくなっていたということだった。

 

バケットと生ハム。時々それにチーズを添える。そんなつましい昼食はスローライフの実践とか、貨幣に過度に依存しない生活といった耳障りの良いものでは決してなく、必要に迫られてギリギリのところで採用せざるを得なかった生存戦略でもあったというわけだ。そしてもちろん現金を必要とするのは食料品の購入ばかりではない。シャンプーや石鹸といった日用品はもちろん、足にマメができないようにワセリンを、足のマメが潰れたときには消毒液を購入しなければならなかった。

 

いつもお腹をすかせて、他の巡礼者のものよりも何倍も重くて大きい荷物を担いで歩く。少しずつ衰弱していっている自分を感じていた。

 

どこまでも続く巡礼の道。あたりは収穫の終わった麦畑。

 

ではクレジットカードはどうだっただろうか。海外を旅しているのだから複数のカードを持っていてしかるべきである。事実僕は合計3枚の、それぞれ異なる会社のクレジットカードを持っていた。しかし残念なことに、それらも全て使用することができなかったのだ。

 

そのうちの一枚は、社会人なって以来ずっとメインで使用しているクレジットカードだったのだけれど、カミーノで使えたことは一度もなかった。後で調べてもらってわかったのだけれど、磁気ストライプが弱くなっていて、外国の簡易的なカードリーダーでは情報を読み取ることができなくなっていたそうだ。試しに帰国後日本のコンビニエンスストアで利用してみたところ、実に驚くほどあっさり利用できてしまって苦笑した。

 

あとの二枚は単純にカミーノ・デ・サンティアゴ沿いの店舗ないし宿泊施設で取り扱っていない会社のものだった。どのお店も判で押したように利用できるのはVISAとMASTERだけだったのだ。そしてその時僕が持っていた残りの2枚のクレジットカードというのは実にそれ以外の会社のものだったというわけだ。

 

6月に一時帰国した際、それまで携行していたMASTERカードをおいて別のカード会社のものに変えて出国した。それまでの旅で一度も使用したことがなかったのがその理由の一つで、代わりに次の目的地であるアメリカで普及しているカードを持って行っておいたほうがいいと判断したからだ。自分が所有しているすべてのカードを携行して旅をするのはリスクが高い。そして実を言うと、日本を発つ時点でカミーノ・デ・サンティアゴを歩く、ということは想定していなかった。

 

自由気ままな旅は、計画性のない旅であるとも言い換えることができる。そして今回はそれが裏目にでてしまった。クレジットカードを使えないことの不便は、食料品や日用品の購入の面だけにとどまらなかった。

 

 

カミーノ・デ・サンティアゴの巡礼者に必須のアイテム、というのがいくつかある。僕のバックパックには「世界一周のために」必要なものは入っていたけれど、巡礼に必須のいくばくかのモノは入っていなかった。そんな「自分が持っていなかった」物の中で、それらがないがために巡礼を困難なものにしたものの一つが「寝袋」だった。

 

アルベルゲは低料金で利用できるがゆえに、おそらく先進国の人々が宿泊施設に対してイメージする「サービス」のようなものを期待することはできない。当たり前のことだ。寝室はもちろん相部屋で、二段ベッドがずらりと並べられている部屋に宿泊するのだけれど、少数のスタッフで宿泊施設を運営する必要上、ベッドはあっても寝具がないことが多かった。だから巡礼者にとって「寝袋」は欠かすことのできない「マストアイテム」なのである。

 

しかし前述のように僕のクレジットカードはもう使用できなくなっていたので、手持ちの僅かな現金を割いてそれらを購入しなければならないということになる。考えたあげく、比較的安価な「雨合羽」を一枚購入することにした。僕がもっていた雨具といえば、軽くて丈夫な折り畳み傘だけだったからだ。雨が降った時に傘をさして歩くのはとても骨が折れるということは容易に想像できたし、少し大きめのサイズの雨合羽は夜、寝具(掛け布団)として使用することができる。

 

北部スペインの秋の夜は結構冷える。雨合羽で眠っていた僕はよく夜中に寒さで目を覚ました。事情を説明することで毛布を無料で貸してくれたこともあったけれど、多分充分に天日に干されていなかったのだろう、毛布にくるまって寝る時は「痒さ」で目覚めることもあった。そこに空腹感が追い打ちをかける。積極的に友達をつくることがあまり得意ではない僕にとって、寒さと空腹を抱えて一人ぼっちで過ごす夜は、控え目に言ってあまり心地よいものであるとは言い難かった。そういう状況も手伝って、僕は朝早くに宿を出立する習慣がついていたのだ。

 

同宿になった巡礼者同士が仲良くなって、夕食後にワインを酌み交わしながら夜更けまで談笑しているのを聞きつつ眠りにつくことが次第に多くなった。そして疲労が充分に取れないまま、翌日の朝を迎えるのだ。

そんなふうにして僕は知らず知らずのうちに擦り切れ行ったのだと思う。精神的にも、肉体的にも。

 

ブルゴスへ

ブルゴス大聖堂(世界遺産)

ブルゴスは北部スペインの主要都市の一つで、ここまで来るとカミーノ・デ・サンティアゴのおよそ3分の1強を歩いたということになる。

 

その手前のオルテガという町を後にしてブルゴスに向かう道中、徐々に両足の膝から下が痛くなってゆき、動けなくなってしまった。具体的には両下肢を主として全身が痛くなってしまい、とても歩き続けることなんてできなくなってしまったのだ。ブルゴスの中心部、宿泊施設が多く立ち並ぶ「ブルゴス大聖堂」まではまだ5km以上ある。途中に宿泊できる場所はない。

 

ランニングを習慣にしていた経験から、様々な痛みへの対処法はある程度心得ていた。例えば僕の場合、膝が痛くなる時は腰が疲れている場合が多くて、足首に痛みが出るときは足底の筋膜かふくらはぎが緊張していることが多い。腰が疲れている時は肩甲骨付近の筋肉を伸ばす。そんなふうにして全身状態をモニターし、しかるべき場所をストレッチして緊張をほぐしてやると程なく僕の身体は機嫌を直してくれるのが常だった。

 

けれどブルゴスを前にして、僕は痛みでほとんど動けなくなってしまった。休憩を多くとってみても、ストレッチをしてみても、全身状態は一向に改善しない。こんな状態になるのは珍しいことだ。電信柱に寄りかかって休んでいた僕の前を日本人男性が通り過ぎていった。その男性はずいぶん心配そうに僕の表情を覗き込み、最初はAre you OK?と、ついで僕が日本人であるとわかると「大丈夫ですか?」と日本語で声をかけてくれた。「少し休めば大丈夫だと思います」。僕は答えた。その男性は僕の横に座って少しだけおしゃべりをしてくれた。

 

休憩を挟んで多少楽になったものの、結果的にその日は9時間かけてブルゴスにたどり着いた。時刻は午後3時で少しだけ宿の空き状況が心配ではあったけれど、世界遺産であるブルゴス大聖堂のすぐ近くに位置するそのアルベルゲには多くの巡礼者を受け入れることができる充分なキャパシティがあった。それでも数時間後に到着した巡礼者はもう、満室を理由に宿泊を断られていたみたいだった。

 

その日は持っていた痛み止めを飲んで眠った。

 

痛み

巡礼の道。羊飼いと羊の群れ

そんなカミーノの巡礼であったのにもかかわらず、僕は毎日朝が来るのが楽しみだった。疲れが抜けきったとは言い難い体を起こして身支度をする。午前6時。夜はまだ明けきってはいない。巡礼者は西に向かって歩くことになるので、東から昇る太陽の光を背中から浴びることになる。収穫が終わったあとの麦畑を、ひまわり畑を、そこに広がる美しい風景を、少しずつ昇る太陽が始めは赤く、そして次第にそこにあるすべてのものを鮮やかに光り輝く黄金色へと変えてゆく。

 

僕はその時間帯が本当に好きだった。朝日に照らされて少しずつ姿や印象を変えてゆく風景はまさに聖地へと続く巡礼路の、聖なる道としてのそれに相応しいものだった。そこに含まれている自分自身もまた、祝福されているように感じた。ずっとこの巡礼の道を歩いていたいと思った。それは同時に、サンティアゴ・デ・コンポステラへと続くこの巡礼路が、何百年もの間、世界中の人々をひきつけてやまない理由が理解できるような気がした瞬間でもあった。

 

朝日を受けて輝く麦畑

 

ブルゴスを出て二日後、「カストロへリス」という村にたどり着いた。北側にそびえる小高い丘の麓、山肌に沿うようにして拓かれたこぢんまりとしたその村にたどり着いたのが2017年9月12日。カミーノ・デ・サンティアゴ13日目のお昼すぎである。

 

目星をつけていたアルベルゲにチェックインしてシャワーを浴び、ベッドに体を横たえる。上半身の、両脇の下から脇腹にかけての広い範囲の複数箇所に、刺すような鋭い痛みを感じたのはその時だった。

上半身になにか少しでも力が加わると痛い。寝返りを打とうと体を横に向けるとそれ以上の痛みが走った。横たえた体を起こすことはとてもじゃないけどできなかった。何かしらの力を入れた瞬間に、上半身に激痛が走るのだ。

 

この痛みは10年ほど前に経験したことがある。肋骨骨折だ。

 

手持ちの現金が少なかったために、食事をきちんと取ることを怠っていた僕はずいぶん疲労が溜まっていた。その状態で20kgに及ぶ荷物を背負って毎日およそ20kmの巡礼路を歩いた。巡礼に来る前の約一ヶ月間続いた風邪とそれに伴ういわゆる「空咳(dry cough)」も原因の一つだったかもしれない。

 

とにかくこれは肋骨が折れている。痛みは、時間の経過につれてその強さを増していった。我慢できなくなってバックパックの中からくすり袋を取り出す。痛み止めが6錠残っていた。最初の一錠を飲む。効かない。次の一錠を飲んでしばらく我慢してみる。やはり効かない。なにかお腹の中に入れておかないと胃腸に悪い。けれど動けないし外出なんてできやしない。そもそも痛みで食欲なんてありはしない。

 

さらに不幸なことに、痛みは夜間に増悪した。なにせ少しでも肋骨が動くと痛いのだ。つまり息をするだけでー横隔膜が動くだけでー激痛が走るのである。眠れるわけなんてない。事実その日は痛みで一睡もできなかった。

 

旅の終わり

カストロへリスの町

巡礼者は同じ街に2夜以上滞在してはいけない。カミーノのルールの一つである。つまり少しだけでも前に進む必要があったのだ。

いつものように出発の準備をするが、それが終わったのがチェックアウト期限時刻の直前だった。顔を洗うのも歯を磨くのも服を着ることも。痛みのせいで、なにをするにも途方も無い時間がかかってしまう。

 

荷物を持ち上げるだけで痛い。歩くだけで痛い。階段の上り下りなんてとんでもない。そんな状態でアルベルゲをチェックアウトした僕は、坂を少しだけ上がったところにある巡礼路上のちょっとしたベンチに腰掛けて、じっと痛みをこらえていた。そうする以外に、その時の僕にできることなんて何もなかったのだ。

 

いつ追い越したんだろうか、先日ブルゴスに至る道中で出会った壮年の日本人男性が僕の前を通り過ぎようとした。僕に気づいた彼は「やぁ、あの時の」と言って、あのときと同じように声をかけてくれた。

「ブエン・カミーノ」。そう言ってステッキを持った手を軽く上げて僕の方に向け、彼は小さく微笑み、そして通り過ぎていった。

 

日本に帰ろう。そう決心したのはその瞬間だった。朝日がそこに含まれるものすべてを祝福し終え、やがてあの照りつける、灼けるような日差しに変わる時間帯に差しかかる頃だった。9月のある晴れた日の、スペインの聖なる道の朝だった。

 

それが僕のカミーノ・デ・サンティアゴの、旅の終わりだったのだ。

カストロへリスの町からカミーノを眺める。

\ スポンサーリンク /

cr_online
sekapaka_banner_square_final

3 件のコメント

  • おすぎさん。お疲れ様でした。毎回、楽しく拝読させていただきました。世界中のその場その場の魅力が伝わり、紀行文としてのおもしろさは十分にあり、また、旅を通じて自分と向き合い、自分とは人間とは何か、というものを考えさせられる文章は、斬新であり本当に面白かったです。(私は年寄りなので出来ればペ-パ-で読みたいです。(笑))
    おすぎさんには、何かを書くまたは表現する、才能または材料があると思います。また何か書くことがあればお教えいただければ幸いです。

    • SATOさんありがとうございました。
      突飛なエンディングで恐縮です。いつか、この連載を本にできたらって言うのが今の僕のささやかな夢です。
      書籍化の暁にはぜひお手にとってください!

  • SATO へ返信する コメントをキャンセル

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

    ABOUTこの記事をかいた人

    osugi

    2016年11月から約400日間、世界を旅してまわっていました。 現在は旅を終えて、フィリピン・セブ島の旅人たちが集まる英会話スクール「Cross x Road」で、素晴らしい仲間に囲まれながら、日本人の生徒さん向けに英文法の授業をしつつ、旅に関するあれこれを徒然なるままに書く、という素敵な時間を過ごしています。